壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

ピアノ・レッスン アリス・マンロー

ピアノ・レッスン アリス・マンロー

小竹由美子 訳 新潮クレストブック 2018年11月

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マンローの処女作を含む初期短編集。その描写の精緻で辛辣な特徴は晩年まで一貫していたらしい。心に刺さった棘は、長い間忘れていればそう痛むものではなくなっているが、何かの拍子でふとそれに触れば、チクリと痛い。思い出せばつい触ってしまいたくなるが、思い出したくないこともある。でも、この痛みは誰もが持っているのかと、ほっとするような、なんともいえない気持ちにさせられる15編の短編集です。

 

 

『ウォーカーブラザーズ・カウボーイ』 Walker Brothers Cowboy

父さんはギンギツネの飼育事業をやめて、今は日用品の行商人。母さんはそれを受け入れることができない。行商の仕事に付いて行った私は、いつもと違う父さんを見た。子供の目を通して語られる話は、それ以上のものを読者が読み取るものだが、マンローの少女はすでに大人並みの観察眼を持っているようで、父親と母親の齟齬を見きわめている。

 

『輝く家々』 The Shining Houses

 新興住宅地の真ん中に残ったミセス・フラートンの古い家は、景観が悪いというだけで周囲の住民から疎ましがられている。署名活動をして家を立ち退かせようという人たちに異を唱えたいメアリーだけど、表立った反対がなかなかできない。

 

『イメージ』 Images

 病床に居る母の世話をしに来たのは父のいとこのメアリー・マックエイド。メアリーが家中を支配しているように感じている少女は、メアリーが苦手だったが、ある時父の仕事に付いて行って、怖い思いをしたことで物の見方が変わった。少女の感情が嗅覚の表現によってうまくあらわされている。

 

『乗せてくれてありがとう』 Thanks for the Ride

 行きがかり上、年上のいとこと父の車でドライブすることになった少年。田舎町で声をかけた少女たちとデートすることになった。少年たちの家庭と比べたらずっと貧しい少女たちの暮らしを垣間見る。少女たちの視点では語られない物語だが、少女のいら立ちや苦しさやいたたまれなさが強烈に伝わってくる。

 

『仕事場』 The Office

 家事と育児をしながら家で仕事をすることの困難さを抱える、作家である私は、家の外に仕事場を持とうと考える。やっとのことで仕事場を借り書き物も捗っていたのに、家主の男が余計な詮索をしてくる。言葉を選びながらも拒絶すると事態がもっと悪化して、とうとう仕事場を失う羽目になった。 

家主の男はもちろん胸糞悪いくらい腹立たしいが、女が家で仕事をする困難さをマンローは…

「男ならば家で仕事するのは問題ない。男は家に仕事を持ち込む、家はそのためにちゃんと片づけられている。家のなかで、男の身のまわりはできるだけ整えられる。男には仕事があるということを、誰もが認識している。電話に出ることは期待されないし、なくなった物を探すことも、なぜ子供たちが泣いているのか見にいくことも、猫に餌を与えることも期待されない。男はドアを閉めておける。想像してみてよ(とわたしは言った)、母親が自室のドアを閉じてしまい、このドアの向こうに母親がいるのだと子供たちにはわかっているという光景を。(中略)だからね、家というのは女にとっては同じではないの。女は家に入っていって、家を利用して、また出ていくというわけにはいかない。女は家なの。わけることはできない。」

…と。

昨今のコロナ騒ぎで、夫婦で自宅リモートワークをしている妻たちが、仕事だけしている夫に腹を立てている様子と似てますよね、50年以上も前なのに。

 

『一服の薬』 An Ounce of Cure

 失恋の痛手を抱えた15才の少女は、ベビーシッター先で飲酒して騒動を起こす。町中にスキャンダルが広がってなかなか辛い思いをするのだが、反面、自分自身を冷静な目で見ている少女は若い日のマンローなのかな。

 

『死んだとき』 The Time of Death

パトリシアの幼い弟が事故で死んだ。こんなに辛い話をパトリシアの気持ちに触れることなく淡々と描写し続けるマンローの筆に、胸が絞めつけられるようだ。辛口です。

 

『蝶の日』 Day of the Butterfly

 クラスの女の子の輪に入れないマイラに対する距離の取り方に戸惑うわたしは、お菓子のオマケ(蝶の形のブローチ)をマイラにあげた。白血病で入院したマイラの誕生日を病床で祝った時のこと、マイラがお返しにくれたプレゼントが突然重いものに変わった。

 

『男の子と女の子』 Boys and Girls

 父の農場の仕事を手伝っているわたしは幼い弟よりずっと父の役に立っている。でも年がたつにつれ「女の子」としてふるまうことへの周囲の圧力が増し、いらだたしい思いだ。さらに自分自身の中にも変化するものがある。ある時キツネの餌用につぶされる自由奔放な雌馬を逃がしてしまう。自分が女であること、今まで通りにふるまえないことへの苛立ち、くやしさ、あきらめが見事に描かれている。

 

『絵葉書』 Postcard

 年上の恋人がフロリダへの休暇旅行中に別の女性と突然結婚して帰ってきた。気持ちの持って行き所はどこなのか。

 

『赤いワンピース―― 一九四六年』 Red Dress―1946

 ハイスクールのダンスパーティで着る赤いベルベットのドレスを縫っている母親がだんだんに疎ましくなっていく。ダンスパーティでの出来事に、自分が何者なのかという揺れる思いが伝わる。

 そういえば、母親の手作りの服ばかり着ていた(着させられていた)私は、小学校6年生の時初めて既製品のブラウスを買ってもらってすごくうれしかったことを突然思い出しました♪

『日曜の午後』 Sunday Afternoon

 裕福な家庭で夏の間だけメイドをしているアルヴァが、ホームパーティの給仕をしている時の疎外感と期待感が描かれる。

 

『海岸への旅』 A Trip to the Coast

 海岸近くのさびれた集落で祖母と叔母と3人で暮らす11才のメイ。毎日、強力な祖母の支配下にあってうんざりしている。ある日店を訪れた客が祖母に催眠術をかけたところ… ばあちゃん、死んでも強い。

 

ユトレヒト講和条約』 The Peace of Utrecht

 母を一人で看取った姉に会いに行った。自分だけが結婚して遠くにいたことを負い目に感じていた。母の壮絶な最期を大叔母たちから聞かされる。姉と距離を感じていたが、あるきっかけでその気持ちに寄り添うことができたのかも。

 

ピアノ・レッスン』 Dance of the Happy Shades

 老いてすっかり零落してしまった人の好いピアノ教師ミス・マルサレスの小さな家で開かれたピアノ発表会で起きたこと。娘たちを連れて参加した母親たちの当惑と居心地の悪さが延々と描かれる。辛辣な話の最後に聞こえてきた天上の音楽ともいうべき曲「Dance of the Happy Shades」の美しさに救われる。