壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

おいしいご飯が食べられますように 高瀬隼子

おいしいご飯が食べられますように 高瀬隼子

講談社     Audible

二回目のお試し期間で聴いたオーディオブックです。ありふれて見えた人間関係が実にスリリングでした。小さな営業所の会社員たちの食事事情は「サラメシ」風ですが、お仕事小説ともグルメ小説とも恋愛小説とも一味違う、人間関係を深堀した小説です。

仕事が出来ないけれど、か弱くてかわいくて、周囲の人間の保護者意識を掻き立てる芦川が第一の人物です。芦川の視点は小説の中に一つも出てこないのですが、自分が対応できないタスクを避けるように体調不良で早退したのに、次の日にお礼と称して手の込んだお菓子を焼いて皆に配るというような女性です。その芦川と付き合っているのが二谷で、仕事ができてクールに見えるけれど、美味しい食べ物に複雑な嫌悪感を持っているので、芦川の手料理に密かに閉口しています。後輩の社員の押尾は体育会系女子ですが、早退した芦川の仕事の穴埋めを残業してやらざるを得ず、芦川に反感を持ちますが、二谷には好意を持っているので、二谷にある提案を持ち込みます。

小さな営業所内の長時間労働、配慮義務、同調圧力を背景にして、三人の屈折した関係が面白く描かれています。この三人に、共感と反感の両方を同時に持ちながら、複雑な思いで読みました(聴きました)。ほんとうは字で読みたかったけれど、芥川賞受賞作は値段が高いままです。

進化のからくり  千葉聡

進化のからくり 現代のダーウィンたちの物語  千葉聡

講談社BLUE BACKS   Audibleと紙の本

『歌うカタツムリ』の著者による、進化学を巡るエッセイ。Audibleの聴き放題で見つけて、積んであった紙の本と並行して読みました(耳学問だけでは理解しにくい所があります)。

各章の導入部分の掴みも面白いのですが、もっと面白いのが進化生物学者たちの生態です。フィールド調査に向かう研究者達のエネルギーと、進化の謎を解きたいという彼らのあくなき好奇心に元気と笑いを貰いました。

取り上げられているトピックは以下の通り。ダーウィンフィンチ、生物の左右非対称性、左巻きのカタツムリ、カワニナの種分化、琵琶湖のカワニナの適応放散、著者が古生物学から進化学へ進化した話、ハワイ島の蜘蛛、小笠原のカタツムリ、過酷なフィールド調査、ホソウミニナの陸上進出、ホソウミニナを駆り立てるモノ、カタツムリの右巻き左巻きと種分化、ガラパゴスの陸貝。

どれも面白いトピックですが、特に興味深かったのが、カワニナの種分化と琵琶湖のカワニナの適応放散で、十数年の長きにわたった努力が日の目を見た話です。もう一つはホソウミニナの陸上進出の話で、干潟の中で海側と陸側で形態の異なるホソウミニナが種分化ではなく、実は寄生虫(二生吸虫)による生態と行動の変化だったという驚きの話です。話の展開が面白くて楽しく読ませてもらいました。

カワニナの研究者の三浦博士は物腰柔らかな礼儀正しい紳士とあり(第4章)、ホソウミニナの研究者のミウラ君は眼光鋭いコワモテな学生とありますが(第10章)、これって、たぶん同一人物ですよね。進化生物学者もまた進化しているという事でしょうか。

進化学自身もまた、進化し続けているという話は『歌うカタツムリ』に詳しく書かれていて、さらに『ダーウィンの呪い--人類が魅入られた進化学の「迷宮」』が去年出版されています。『歌うカタツムリ』で指摘されていた、海洋島のカタツムリが生物農薬として持ち込まれた捕食者が原因でほぼ絶滅したという話は、『招かれた天敵--生物多様性が生んだ夢と罠』に詳しい様です。読みたい本の中に入れておきます。

シャーロック・ホームズの建築 北原尚彦

シャーロック・ホームズの建築 北原尚彦 文  村山隆司 絵・図

エクスナレッジ  図書館本

シャーロック・ホームズの正典に登場する建築の間取り図が17載っている。ホームズのミステリに出てきた密室で覚えているのは、『まだらの紐』と『恐怖の谷』くらいだと思うので、密室トリックに限定しているわけではなかった。事件が起きた現場の館の外観スケッチと詳しい間取り図が素晴らしい。著者はプロのシャーロッキアンなので、正典の読み込み方が半端ない。ミステリの内容はほとんど忘れていたので、ネットで確認しながら読んだ。

イカー街221Bはドラマや映画に出てくるが、間取り図を見て、なるほどリフォームされていたのか。『ノーウッドの建築業者』の隠し部屋はこんなに狭かったのか。『マスグレイヴの儀式書』では、あの暗号で地下室にたどり着けるのだろうか。コナン・ドイルに疑義を挟んでいる部分は、シャーロキアンにとっては常識らしいが、あくまでも正典を正典として尊重するべく頑張って辻褄を合わせている。

ミステリと建築というテーマの本が他にもあるのだろうかと検索した。出版されたばかりで図書館にはまだなかった。『ミステリな建築 建築なミステリ』はそのうち借りよう。

不動産ミステリという分野の『変な家』は読んだ。

ミステリに限らず、小説の中の、家や間取り図に対する興味は尽きない。昔読んだ本を書棚から探した。『名作文学に見る家』の二冊は、たまに読むと面白いので、処分せずにいる。『まだらの紐』の家の間取り図がここにも載っていて、上記の本の図とよく似ている!

 

対岸の彼女  角田光代

対岸の彼女  角田光代

文藝春秋  電子書籍&オーディオブック

先月、角田光代氏の講演会を聴きに行った。著書を一冊しか読んでいないことに思い至り、講演の前にと、とりあえず直木賞受賞作を選んだ。お試しのAudibleで聴いていたが、ナレーターの読みが上手で、心地よくて眠ってしまう。途中でもどかしくなり、電子書籍を購入。慌ただしく読んだので、ここに記録するのを忘れていた。

20年前の受賞作で、ドラマ化もされたベストセラーの話題作だったが、読者対象が30代の女性に限定されているような気がして、その時は読む気になれなかったのだと思う。

他人と関わるのが苦手な専業主婦の小夜子は、大学で同窓だった葵に誘われて彼女が経営する小さな会社で働くことになる。立場の全く異なる二人の距離が描かれている。かつて葵は他人と関わるのが苦手だったのに、高校時代に出会った友人ナナコとの友情を糧にして変わっていったのだろう。小夜子もまた大人になって葵と出会い変わっていく。

そういえば、40年くらい前はこんな事を考え、感じていたように思う。同年代の女性との付き合い方に迷い、憶病になる気持ちは覚えている。・・・今はもう、70歳過ぎたら怖いものなし。

香子(三) 帚木蓬生

香子(三) 帚木蓬生

PHP研究所  図書館本

香子(二)に続けて、500頁にまた一週間かかった。

香子(紫式部)の物語は、中宮彰子への御進講を依頼され、彰子が皇子を出産して道長が権勢を振るい始めるころまでが描かれている。紫式部日記の内容も盛り込まれているのだろう、内裏での華やかな儀式や催しの描写が詳しい。『源氏物語』は「乙女」から「上若菜」までを扱っている。光源氏の六条院が完成し、太上天皇に準ずる位にまで上り詰める様子は、香子の現実と呼応している。読んでいるうちに、どちらの物語なのか一瞬分からなくなることがある。香子の現実と香子の紡ぐ物語が溶け合ってしまうのだ。

ついうっかり現代的な視線で『源氏物語』をよむと、貴族のセクハラ・パワハラ男たちに腹がたち、女たちの階級差別にあきれる。ツッコミどころ満載なのだ。六条院なんかハーレムそのもの。

ところが、「香子の物語」の中での当時の読者たちの視線で読むことで、『源氏物語』そのものの面白さが増してくる。政治的な駆け引きの中で生まれる複雑な男女関係、スキャンダラスな秘密、それがあからさまには書かれずに読む人の想像力にゆだねていくやり方など、巧みな書き方に改めて驚いた。

源氏物語』のストーリー構成も巧みだ。帚木さんの作家としての視線なのだろう、光源氏の流刑先を「須磨」にした理由、大団円のように終わる「藤裏葉」から先(第二部の「上若菜」)をどうするかという思索に、納得する。

女三の宮が源氏の元へ降嫁してきて、波乱含みの展開が予想される『香子(四)』を続けて読もう。失われてしまったのか、書かれなかったのか、謎の「雲隠」の帖をどう扱うのか、楽しみだ。 

わたしの美しい庭   凪良ゆう

わたしの美しい庭   凪良ゆう

ポプラ社   図書館電子書籍

図書館の電子書籍は未だコンテンツが少ないので、とりあえず借りられる小説を予約しておいたのが、回ってきた。初読みの作家。

マンションの屋上にある「御太刀神社」には、悪縁を断ち切るという御利益がある。古い神社の敷地にマンションを建て屋上に社を置いたのが、宮司である統理の両親。今はそれを受け継ぎ、統理はなさぬ仲の百音と暮らす。マンションの住人達には、心に何かしら抱えるものがあるが、悩みながらも生きていこうとするという、分かりやすくていい話。登場人物のキャラが明確で魅力的だ。「普通の人」からはちょっと外れるかもしれないけれど、お互いに支え合う姿が好ましい。

ビルの上にある神社で不思議なことが起きるのかと予想していたが、現実の範囲に収まる話だった。歳をとると、こういう「いい話」に癒されにくくなる。いつまでも素直な気持ちを持ち続けられるといいのに、と思う。いや、若い時からひねくれていたのかしらん。

香子(二) 帚木蓬生

香子(二) 帚木蓬生

PHP研究所  図書館本

香子(一)に続けて、内容の濃い500頁に一週間かかった。

香子(紫式部)の結婚と出産、父母の帰京、祖母の死、夫宣孝の死、中宮への出仕と変化していく時に、源氏物語のどの部分が書かれていったのかがわかるように構成されている。『源氏物語』の紅葉賀から朝顔までの各帖が、香子のライフステージと共に提示されている所が面白い。

祖母や夫と死別したことの哀しみから逃れるようにして書いた「須磨」の帖では、登場人物たちの切ない感情が細やかに表現されている。それに続く「明石」の帖では、明石の入道の滑稽な場面が書かれていいて、香子が少し元気を取り戻したように思える。帚木蓬生氏自身の思い入れが強いのだろう、「蓬生」の帖の前には詳しく解説が入っている。源氏物語の「蓬生」は短いけれど好ましい。香子が中宮彰子のもとに出仕し、内裏の華やかな様子を見た後には、『物語』のなかでも、華やかな美しい衣装についての記述がある。明石の君が娘を手放すあたりの迷いと哀しみがより伝わるのも、香子に娘がいるからかもしれない。人の親の心は闇にあらねども 子を思う道にまどいぬるかな という後撰和歌集の歌が、『物語』の中で幾たびも下敷きにされている。 

また、香子が『物語』を一帖書き上げるたびに、家族や知人が感想を寄せてくる。書写によって『物語』は拡散し、一帖書くたびに、次を待ちかねていた読者の声が香子に届く。現代の連載小説や連続ドラマのように、フィードバックがある様子が面白い。中宮彰子の局で女房達が、香子を囲んで好みの登場人物を評し、「何だか、雨夜の品定めみたいになってきた」と笑う場面が楽しい。さらに、同僚の女房に問われて、「桐壺」と「帚木」の間に、破棄した帖があることを、香子は仄めかしている!(丸谷才一の『輝く日の宮』をそのうち読もう。)

当時の女性の読者は、人間関係・男女関係の機微を詳しく読み取って楽しんだのだろう。また下敷きとされている歌や漢詩・故事を読み取るだけの教養が読者に求められている所が非常に多い。当時の男性の読者に人気だったのは、その点にもあるのだろう。

次巻(三)を続けて読む。