壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

海辺のルーシー エリザベス・ストラウト

海辺のルーシー  エリザベス・ストラウト

小川高義訳  早川書房  図書館本

ルーシー・バートンのことは、『私の名前はルーシー・バートン』『何があってもおかしくない』『ああ、ウィリアム』で、もうずいぶん前から知っている。ルーシーが二番目の夫を亡くし、元夫のウィリアムと少しばかり距離が縮まったのは『ああ、ウィリアム』だった。それから間もないころ、コロナがニューヨークに迫り、ウィリアムに強く促されて、メイン州の海沿いの家へ引っ越した。

田舎の町でも、コロナの影響は大きい。ウィリアムにこの海辺の家を世話してくれた弁護士のボブ・バージェスは、自家製のマスクを付けている。ウィリアムが持ち込んだニューヨークナンバーの車に、「出ていけ」という貼紙があった。ソーシャル・ディスタンスとロックダウンで、閉塞感のある社会は、気が滅入るものだった。

この小説の面白さの一つは、同じ著者の別の作品に登場した人物たちが、ここにも顔を出すことだ。『バージェス家の出来事』のバージェス、『オリーヴ・キタリッジ』『オリーヴ・キタリッジ、ふたたび』のオリーヴが登場する、連作長編みたいになっている。
疎遠になっていた知人に久しぶりに会った気がした。ルーシーも前作に出てきた話を繰り返して語っている。ああ、そうだったねと、懐かしく思い出す。新しく知り合った人たちの意外な関係にルーシーが癒され、娘たち(クリッシーとベッカ)との距離が変化し、ウィリアムとも近しくなる。そんな些細な日常が、とりとめもなく続き、話が現在から過去へ行ったり来たりする。ルーシーの日記のような小説を読んでいると、私自身の記憶もよみがえる。
これまでのシリーズの中で、私はこの本がいちばん好きだ。ルーシーの人物像がいっそう明確になり、子供時代の貧困の記憶が、彼女の人生にどれほど影を落としてきたのかも、改めてよくわかった。

ルーシーの語りは、柴崎友香の小説(例えば『わたしがいなかった街で』、『続きと始まり』など)の登場人物を思い出させる。ドラマチックではない日常の断片、他人を見つめる寛容な視線、人と人の間の絶妙な距離感などに、共通点があるのかもしれない。もちろん、コロナ禍の中での出来事であることは大きな要素だが、日常生活のささやかなことを通して、その時期を描く様子がとても好ましい。柴崎友香とエリザベス・ストラウト、文学として同軸に語っていいかどうかは分からないが、私の「自分軸」でいえば、両方とも大好きな作家なのだ。

 

ルーシーの物語は、未邦訳の『Tell Me Everything』があるそうで、オリーヴとルーシーが邂逅するらしい。早く読みたいなあ。

偽医者がいる村  藤ノ木優

偽医者がいる村  藤ノ木優
角川文庫 Audible + Kindle Unlimited

若い産科医が、大学病院での医療事故をSNSでバッシングされ、逃げるようにたどり着いたのが、雪深い限界集落の診療所。そこで出会った人々に励まされる形で自分を取り戻していくという話。
ストーリーは平凡だが、産院の減少、過疎の村での医療問題が分かりやすく説明されていた。現役の産婦人科医が書いたというだけあって、なによりも、お産のシーンが迫力満点だった。

いくら医療が進歩しても、出産はやはり命がけだと思う。最善を尽くしても、助けられない命がある、という言葉は重い。小さな産院で母子とも助かった時には、じわっと感動してしまった。
朗読もドラマチックで聴きやすかった。読み放題にもあったので、Audibleを聴きながら、聞き逃した部分を読んだ。面白かった。

もうひとつの街 ミハル・アイヴァス

もうひとつの街  ミハル・アイヴァス
阿部賢一訳 河出文庫 電子書籍

ミハル・アイヴァスはチェコの作家。SFにおける「都市」というのをテーマに読み進めようと計画しているのだが、なかなか捗らない。本書はSFなのだろうと読み始めたのだが、SFとも異世界ファンタジーとも異なる思弁的な幻想小説だが、シュールで悪夢のような幻想の中に冒険小説的な面もあって、眩暈のするような読み心地だった。

 

プラハの古書店で、見たこともない文字で書かれた本を手に取った〈わたし〉は、その本に誘われるように、幻想的な「もうひとつの街」を彷徨う。
〈わたし〉が彷徨う、現実のプラハと重なって存在する「もうひとつの街」の境界は、図書館の書棚の奥、閘門の深い底、街の彫像の空洞などにあった。地下寺院での異教徒の舞踏、奇怪な海の生物たちに出合う。エイの背中に乗って空を飛び、閘門の底にそびえる摩天楼や図書館奥のジャングルに迷い込む。
もうひとつの街の中心を探そうと緑色の路面電車に乗って冒険の旅に出ようと決心するが、果たすことはできなかった。しかし、自分の住む現実の世界を手放して永久に戻らないと決心したときに、〈わたし〉は初めて、もう一つの世界に近づくことが出来るのだと悟った。

 

自分たちとは全く異なる世界を理解するには、自分たちの価値観を当てはめてはいけないのだろう。異文化や異教を、自分たちの常識で理解しようとすること自体が、もうひとつの世界を見えなくしてしまうのかもしれない。

プラハ城、カレル橋、ヴルタヴァ(モルダウ)川、ヌスレ渓谷など、実在するプラハの場所が印象的に出てきて、「裏プラハ」の観光案内のようでもある。千数百年の長い歴史を持つ古都の記憶、歴史上の「見えない都市」は想像力の源なのだろうか。カルヴィーノの『見えない都市』、カフカの『城』、ボルヘスの『バベルの図書館』を思い出す。

プラハの街を見たこともないし、これから見ることもないだろう。でも「世界ふれあい街歩き」、「ヨーロッパ・トラムの旅」という番組で、プラハの街を観光したことはあるので(笑)、僅かな知識と乏しい想像力で幻想的な世界を頭の中に必死で描き出した。そしてスメタナの『我が祖国』を今、聴いている。
『プラハの古本屋』で見つけた本をやっと読んだ。ミハル・アイヴァスにはもう一冊『黄金時代』という邦訳がある。積読本を読んで、読みたい本がまた増えた。

プラハの古本屋  千野栄一

プラハの古本屋  千野栄一

中公文庫  Audible

これから読む予定の、チェコの作家ミハル・アイヴァスの『もうひとつの街』は、プラハの古書店で、見慣れぬ文字の本を見つけたという場面から始まる。そこで、プラハの古書店に興味を持ったとたんに、Audibleに本書『プラハの古本屋』が上がっていた。聴いただけでは言語学の部分が理解できず、図書館で探したら予約の長~い列。なぜか人気の本だったので、聴くだけで満足しよう。

 

スラブ語系の言語学者である著者のエッセイは1987年に刊行され、昨年文庫化されたらしい。民主化される前のチェコスロバキアに留学した著者は、研究のための学術書を手に入れるために、プラハに10軒ほどしかない古本屋に通いつめて、稀覯本をやっと手に入れる。共産圏では禁書も多く、出版は自由には出来ない。古本の売買も自由主義経済の原則には則らず、古本の売買の価格が決められていた。
欲しい本のリストを何年も眺め、古本屋の店主の信頼を得てやっと欲しい本を手に入れ、ある時は知人を頼って本の持ち主と物々交換(河童と交換?)をしたり、本に対する情熱の深さに触れて楽しくなった。言語学という分野も興味深い。

 

つい最近まで、欲しい本を簡単に手に入れることはできなかったなあ、と思う。ただし「つい最近まで…」というのは後期高齢者の時間感覚だ。二十世紀の終わりまで、本は本屋さんに行って買うのが当たり前だった時代だった。
半世紀近く前、東京から田舎に引っ越してきた私にとって、アクセシブルな本屋がほとんどないことがとても苦痛だったので、読みたい本が手に入らないというもどかしさは分からないでもない。しかし簡単に手に入らないからこそ、本を読む愉しみが大きかったのかもしれない。本を手に入れるまでの苦労も、読書の楽しみの一部だった。
電子書籍が瞬時に手に入り、紙書籍でさえ翌日に手に入る時代になった。図書館の本もオンライン予約できるし、自由な読書が存分に楽しめるはずだ。でも不自由の中で本を読むという本当の楽しさは減ってしまい、積読本が増えていく。

 

積読本の『もう一つの街』以外に、プラハと書籍をテーマにした本『プラハの憂鬱』(佐藤優)、『プラハの墓地』(ウンベルト・エーコ)を見つけた。面白そう。

楽園の子どもたち カミラ・グルドーヴァ

楽園の子どもたち カミラ・グルドーヴァ
河出書房新社  図書館本

印象的な表紙の装画 Franz Graf von Pocci  Viola Tricolor, 1876

短編集『人形のアルファベット』で垣間見たグルドーヴァの奇妙でグロテスクな世界が、長編という形で引き継がれている。廃れていく古くて小さな映画館と、そこで働く人たちの残酷で美しい物語。
世の中からはじき出され、パラダイスという名の映画館のスタッフとして劣悪な労働環境で働く人たちは、退廃的でどうしようもないのだが、映画への強い愛という煌めきを持っているのも確かだ。
何も持たずにその町にやってきて、映画館で働くことになったホリー。しだいに仲間に受け入れられ、映画に取り込まれていく様子が、悪臭の漂う不潔な客席やロビーの様子と共に語られる。不愉快さと同時に郷愁の伴う表現が非常に独特だ。
映画館の風変わりなオーナーが亡くなり、シネコンに買い取られ、映画館は少しずつ変貌し、やがて衰退していく。60~70年代の古い映画に代わってマーベルやピクサーの作品が幅を利かせるようになり、スタッフがだんだん減って、映画館も終焉に至る過程が物悲しい。

20あまりの章題はすべて古い映画の題名になっている*1。数編しか観たことがないので、ネットであらすじを調べてみたが、映画の雰囲気まではわからない。結局、こんな映画なのだろうかと想像しながら読んだ。映画のストーリーがサウンドトラックによって印象づけられるように、古い映画の題名が小説の物語に独特の雰囲気を与えているのだろう。

不潔さや猥雑さと、微かなユーモアと郷愁と物悲しさが混在する世界が、残雪『黄泥街』を思い出させた。

*1:

『楽園の子どもたち』目次
真夜中のカーボーイ/七人の侍/何がジェーンに起ったか? /ミツバチのささやき/タクシードライバー/テオレマ/月光石/獣人/天国への階段/カビリアの夜/オズ/ファニーとアレクサンデル/天使の復讐/ポップコーン/おもちゃの王国/赤い影/ファントム・オブ・パラダイス/ヘザース/ベロニカの熱い日/ローズマリーの赤ちゃん/ラスト・ショー/赤い靴/ベニスに死す

積読こそが完全な読書術である 永田希

積読こそが完全な読書術である  永田希

ちくま文庫  Audible

合成音声による朗読のせいもあって、独特な硬い言い回しが頭に入らないので、約五時間の聴く読書に一週間以上かかった。何度も同じ繰り返しと脱線があって、議論がなかなか進まない。…眠くなっちゃうし…

でも、何とかまとめてみると、

現代は情報が氾濫していて、世の中には膨大なテキスト情報が蓄積されている。そういう情報全体が、一種の積読状態だという。だから、自分が興味を持った分野の情報は、ビオトープ的に身近に積んでおくのがいい。
『読んでいない本について堂々と語る方法』が何度も引用されているが、読書の不完全性を説くバイヤールの「「読んだ」と「読んでいない」とのあいだの境界は不確か」という言葉を受け入れるなら、すべての本は未読であるともいえる。
だから、積読を後ろめたく思わなくていい…らしい。でも時々「ビオトープ的積読本」も新陳代謝をおこなうといいらしい。
著者の論旨を正しく理解しているかどうかは、心もとないが、どうせ完全な読書などないのだから、まあいいか。

これまでの私の読書人生の中から考えると、
この世のすべての本が積読本だという主張は分からないでもない。ただ、誰か他の人の積読本ではあるが、私の「積読本」ではない。
まだ手に入れていないがいつか読みたいなあと思っている本は「ヴァーチャル積読本」で、図書館やクラウドサーバーの中に積んであると思っている。
お金を出して購入した本(紙書籍、電子書籍は問わない)は「リアル積読本」である。
永田氏のいう「ビオトープ的積読本」というのは、この「ヴァーチャル積読本」と「リアル積読本」の二つからなっている。
「リアル積読本」はとても後ろめたいので、どれくらいあるのかは、あまり考えたくない。なぜ後ろめたいかというと、せっかく買ったのに読んでないのが「勿体ない」というケチ根性のせいである。食品を買い込んで腐らせ、廃棄するという「食品ロス」が大嫌いだからだ。本は腐らないが、読む時期をのがすと美味しく読めなくなるかもしれない。年に何回か、積読解消祭りを開催するが、別の読みたい本ができる。
だから永遠に積読は解消できないが、まあいいか。人生には限りがあるのだから。

地球外生物学  倉谷滋

地球外生物学 SF映画に「進化」を読む 倉谷滋
工作舎  図書館本

『古文鳥類学』で「平安貴族が愛でたのは本当にホトトギスなのか」という議論がとても面白かったので、「SF映画に登場する宇宙生物は何なのか」という、もっとぶっ飛んだ本『地球外生物学』を図書館で借りた。

第一線の進化発生学者でありながらゴジラオタクでもある著者が、エイリアン、ウルトラシリーズの異星人たち、そして物体Xやソラリスの海などを論じている。学術的知見を縦横無尽・荒唐無稽に駆使して、大胆かつ緻密に宇宙生物を解剖しているのだ。一部の項は「日本進化学会ニュース」に掲載されたものだが、高校生物の知識があれば何とか理解できる。でも見たことのないSF映画/TVドラマ/小説がどうしても見たくなって、困るじゃないの!

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以下は、図書館に返却する前の覚書きと感想/妄想

 

♬ 映画『エイリアン』は1から4までは見た。怖くて怖くて…なのに見たい。あいつは何なのか。節足動物の一種なのかと思っていたが、違うのか。

📚 エイリアン1はシダ植物ではないか。人間の顔面に取りつくフェイスハガーと呼ばれるエイリアンの形態は、シダ植物の前葉体である。前葉体(フェイスハガー)でつくられた受精卵を、宿主(宇宙船の乗組員)の呼吸器もしくは消化器官に挿入する。宿主の中で育った最終形態(チェストバスター)が宿主の胸を食い破って出てくる。このチェストバスターは成体になり無性的に卵(胞子)を作って、宿主に寄生する。
♬ つまり、人間は、受精卵と胞子という二種の卵を産み付けられる宿主として利用されていたのか! 掲載されている図1.シダ植物の生活史(p27)を眺めていて?? 胞子から前葉体が成長するという矢印の向きが反対じゃないかな。

📚 その後のエイリアン2に登場したクィーン・エイリアンは、アシナガバチに似ているのではないか。アシナガバチの働き蜂は、ミツバチのそれと違って潜在的に生殖能力を持っている。クィーン・エイリアン以外の「働きエイリアン」も生殖能力を持っているのではないか。そして、真社会的な生物社会についての考察につながっていく。

♬ そういえば絵本『あしながばち』の中で、”蛹から羽化した、生まれたての我が子の身体を、母蜂が丹念につついて点検する”という説明を思い出した。母性の発露のように勝手に思っていた。でも調べてみたら、実は、幼若な蜂に、突っつく刺激やフェロモンによって、性ホルモン分泌を攪乱させて卵巣の発育を阻止しているということを知った。だから条件がそろえば、働き蜂は生殖能力を取り戻す。母蜂の健気さに感動している場合じゃない。動物の行動を人間の尺度で測ってはいけないのだが、我が子をあまりにつつきまわして構い過ぎるとうまく成長しないかも、なんて思ってしまう。

📚 エイリアンのボディープランについても議論されている。フェイスハガーのカブトガニのような節足動物的な体制と、二足歩行する最終形態エイリアンのような脊椎動物的な体制の両方が、一つの生物の中に同居していることの矛盾をどう埋めていくのか。

♬ この辺の進化発生学の議論は、なるほどなあという感想しか持てなかったが、エイリアンの口から飛び出す第二の顎は、ウツボの咽頭顎に似ているそうだ。

 

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ウルトラQやウルトラマンの異星人も議論されている。ナメゴンはタコ型火星人の家畜だったかもしれないとか、映画『メッセージ』のヘプタポッドも軟体動物系だとか。生物と知性の定義、宇宙人はなぜ裸か、シェークスピア『テンペスト』のアナロジーとしてのSF、オカルトに出合ったら宇宙人と思うのも一つの手だとか。巻末に200近くリストアップされている映像化作品や書籍からの思索は多彩だ。見たこともない作品が多くて宇宙生物の姿が思い浮かばず、議論についていくのが大変だったが、壮大なフィクションを、自由で緻密なサイエンスで紐解く、密かな笑いを誘う企みを楽しんだ。