長女たち 篠田節子 新潮社 2014年2月刊
一昨年、長女として認知症の実家の母を看取った後に読んだ。母と娘の、家族ならではの葛藤が書かれていて、介護の場面などまさにリアル。ただ、介護の実際がこの短編のテーマではない。高齢出産と高齢化社会のゆえに、介護が終わった時には介護者も年老いてしまう。そういう厳しい状況の中で、介護者は自分をどう取り戻していくかということだ。もう一つの隠れたテーマは人間の寿命に関する文明観。今日の過剰ともいえる医療をどう見るのかということだ。
この本を読んだ直後は、私自身は長女の立場だったが、今年に父を亡くして介護を終えて、今度は介護される側の者として、もう一度読み直してみた。還暦を過ぎても、今はまだ冷静に娘たちに迷惑をかけないように終活をしたり、延命治療は不要などとエンディングノートを作っている。でもしかし、いつか頭のねじが外れてしまったとき、ここに出てくる母親たちのように、私は娘を介護に巻き込んで、何が何でも長生きしたいと、ひと騒動おこすのかもしれないのだ。怖い怖い。…私にも長女がいるのだから。
「家守娘」 介護離職をせざるを得なかった直美。父の亡き後、認知症になり始めたらしい母のことを他家に嫁いだ妹に話しても、取り合ってもらえない。幻覚を見るようになった母の言動はいよいよエスカレートするが…。母の幻覚を丸ごと受け入れたとき、思いもかけない結末がやってくる。直美の武器である電子辞書に電池を装填しながら、未来にかすかな希望を見出すのだった。
「ミッション」 母の死後、実家を出て遠い地で医師となった頼子。孤独死した父の事を引きずりながらもヒマラヤの寒村でへき地医療に取り組む。しかし過酷な暮らしをしている村民たちは、宗教的背景から西洋の医療行為を受け入れない。寿命は天が決めることであり、労働ができなくなれば巡礼に出てそのまま天命を迎える。生きることはミッションであり、その苦役から逃れ巡礼として最後を迎えることこそ望みなんだという。
「ファーストレディ」 糖尿病なのに自己管理ができなくなって暴食をくりかえす母親の介護をしながら、父親の医院を手伝う慧子。糖尿病が進行して腎臓透析の効果も出なくなり、移植しかないと医師がいう。「だれかの腎臓をもらえたら」「あんたのだったら、一番いいね」「あんたのなら自分の体と同じだもの」という母親の言葉を聞きながら慧子は…。