壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

身もフタもない日本文学史  清水 義範

イメージ 1

身もフタもない日本文学史  清水 義範
PHP新書 2009年 700円

日本人がエッセイを書く時、女は清少納言に、男は兼好になる。「枕草子」のように自らのセンスを誇り、「徒然草」のように世の中を叱って己を自慢するのだ。 ・・・という内容紹介を見かけて、エッセイだけでなくブログもそうじゃないかしら?なんて思いました(笑)。

名作といわれる作品はどう評価されるべきなのか、源氏物語から現代につながる日本文学史をたった200ページの新書の中で解説し、著者の独断と偏見による快刀によって乱麻を断ち切るというところが気に入って、久しぶりに笑えました。

紫式部は「史記」から学んだのだろうが、千年前にこんなに骨太の基本構造を持つ文学が生まれた事は奇跡に近い。地の文が敬語で語られるような古典を共通知識として持つ日本人は、独特の価値観をもっているのではないか。平安時代の貴族の、短歌のやりとりは、現代のメールのやりとりに置き換えてみると理解しやすい。・・・などということをとても判りやすく説明してくれます。

以下、思わず納得したもの
○エッセイは自慢話だ。
○「平家物語」は滅びの美学として能の題材になり、「太平記」は欲望の文学として歌舞伎のネタになった。
○紀行文は悪口文学。貫之も芭蕉もとんでもない田舎に来てしまったと嘆き、その系譜は「坊ちゃん」につながる。
西鶴近松は大衆文学の創設者であり、西鶴の「好色一代男」は「源氏物語」のパロディー。近松の心中物はいわば「ロミオとジュリエット」。
○ほとんど会話だけで成り立つ「浮世風呂」は、いわばケータイ小説
漱石が現代でも通じるような論理性を持っているのは、文章が英文構造に裏付けられているため。
○日本近代文学以降は、「みんな自分にしか興味がない」。日本の純文学は私小説という袋小路に入ってしまったのだ。

最後の項で、時代小説、歴史小説推理小説、SFという現代の大衆文学の系譜が大急ぎで解説されていますが、この部分はもっと詳しくても良かったのに・・・。