春の庭 柴崎友香
文春文庫 電子書籍
『かわうそ堀怪談見習い』に惹かれて,著者の受賞作を読みました。恋愛でもなければ,ミステリでもホラーでもなく,ただただ日常の出来事を描写した物語ですが,話の推進力は写真集にある「水色の洋館風の建物」にあるのでしょう。語り手が入れ替わっても,抵抗なく読み進めることができます。移り変わる街の風景と日常の出来事の描写が多く,人々の心情に深くは踏み込みません。感情を押し付けられないので,かえって登場人物の心情を推し量ることができるのかもしれません。
世田谷の取り壊しの決まったアパートに住む太郎は,写真集に出てきた,近所の水色の家の中を覗いてみたいと不審な行動をとる西という女性と知り合いになった。
近所を散歩していて,ちょっと変わったお屋敷や空き家を見つけると,どんな間取りなのか,植物が生い茂りっていると,かつての庭の姿はどんなものだったのだろうと想像したくなります。
太郎と西は,時々話をするようになる。西は水色の家に新しく引っ越してきた森尾家の人たちと親しくなり,ホームパーティーに太郎も呼ばれた。
太郎と西は友情とはいえないまでも,どこかで共感するところがあるようです。深く踏み込まないけれど,どこかで繋がっているあっさりとした人間関係が好きです。
西は水色の家のタイル貼りの風呂場を見るチャンスを伺っていたが,アクシデントからそれが叶う。森尾家は水色の家から引っ越し,西もまた引っ越していった。あるとき,太郎は水色の家に二階の窓から不法侵入して,庭にあるものを埋めた。
太郎がずっと持っていたすり鉢と乳棒(父の遺骨を砕いたときに使ったもの)をどうするのか気になっていたのですが,重荷を下ろしたような気がしてホッとしました。太郎もまた,ここから出ていけるのでしょう。
表題作のほかに短編三つ
「糸」:疎遠になっていた母が亡くなり,残された家に住む男。
「見えない」:住んでいるアパートの隣の大木の枝が切られて,窓からの風景が一変した。向かいのマンションの窓を眺めるのが習慣になった。
「出かける準備」:出身の大阪で友人たちと会い,とりとめのない話をした。東京から山形へ引っ越す決意がついたのだろうか。