壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

読んでいない本について堂々と語る方法 ピエール・バイヤール

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読んでいない本について堂々と語る方法 ピエール・バイヤール
大浦康介訳 筑摩書房 2008年  1900円

読書ブログをはじめてから三年が過ぎました。6月24日はブログ誕生日で、読んだ本はもうすぐ600冊。訪問者数はもうすぐ三万ヒット。三つともキリのいい数字でお祝いしようと思っていたのですが、最近はいろいろ忙しくて思うように本が読めず、誕生日が過ぎたのに、読了本は600冊にまだ2冊足りないという状態。そこでついこの本に手を伸ばし、読んでいない本について堂々と記事にしてみようかと(笑)・・・・。

ところが、上記のようなネタとして読むのには場違いな、凝ったタイプのまともな読書論でした。でも、すごく面白い!

著者のいう「読んでいない本」の定義はずいぶんと幅広く、
<未>ぜんぜん読んだことのない本
<流>ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
<聞>人から聞いたことがある本
<忘>読んだことはあるが忘れてしまった本
の四種類。つまり、「読んだ」と「読んでいない」とのあいだの境界は不確かだということです。

読んだことのある本もほとんど忘れてしまう私にとっては、ほとんどすべての本を含んでいることになります。これは私に限ったことではないらしく、すべての読書が読書を始めた瞬間から、抗いがたい忘却のプロセスが起動するという言葉に安心しました。読んだことすら忘れてしまった本のことを、もう、くよくよ思い悩む必要はないわけですから。さらに、いくら丁寧に読んだ本であっても、忘却のプロセスによって断片化した記憶の中の書物は各人各様の「内なる書物」へと変貌していき、同じタイトルの書物について議論するときには耳の聞こえないもの同士の対話にしかならないといいます。

また、ぜんぜん読んだことのない本について語るということを、読者が日常的に実行していることにも気付かされます。図書館や書店で、あるいはネット上で見かけた本に対して、タイトルや著者名やカバーデザインから、さまざまなイメージや印象をもちます。詳しい内容は分からないにしても、その書物がどんな位置関係にあるのかということに関しては敏感であり、その本が「面白そう」なのか、「ちょっと勘弁して」なのかを語り、読む本を選択しているわけです。

この本には、読書場面を含んだ小説がたくさん引用されています。例えば、グレアム・グリーンの『第三の男』で、主人公が有名な作家と間違えられて大勢のファンの前で読んだことのない「自著」について語る場面が面白い。これは映画のほうをよく覚えているので<聞><忘>ですが。

もっと面白いのが、デイヴィッド ロッジの『交換教授』『小さな世界』(両方とも<未>)での「屈辱」という名のゲーム。グループで、自分がまだ読んでいない有名な本を一冊づつ各人が挙げ、すでにそれを読んだほかの者一人につき一点獲得するというもので、要するに(大学社会ではとくに)このゲームで勝つためには、他人はみんな読んでいるのに自分は読んでいない本を見つけなければならないという意味での「屈辱」なのです。

漱石の『我輩は猫である』(これは数回は読んでいるが、やはり<忘>に入る)で、金縁眼鏡の美学者(迷亭)が吹く大ぼらの中ででっち上げた本の内容にも、実はいくばくかの真実が紛れ込んでいて、現実の書物と架空の書物との間の境界すら不確かなものであるといいます。筆者が紹介しているエーコの『薔薇の名前』の最後のシーンには、仕掛けとしての虚偽が紛れ込ませてあり、読者ごとに記憶の中で書物が書き換えられるという主張が実践されていました。

著者のピエール・バイヤールには『アクロイドを殺したのは誰か』というメタミステリがあるそうで、そのうち読んで見たいと思います。

この本を読んで読書という行為が極めて曖昧なものに感じられてしまいました。ですから、なんか腰砕けですが、本日をもって、[ブログ三周年・600冊達成・30000ヒット到達♪そうね、だいたいね♪記念日]ということにしておきます(笑)。