壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

神経ガス戦争の世界史  ジョナサン・B・タッカー

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神経ガス戦争の世界史 ジョナサン・B・タッカー
第一次世界大戦からアル=カーイダまで
内山常雄訳 みすず書房 2008年 6500円(←図書館に感謝)


化学兵器軍縮の専門家が、一次資料や関係者への聞き取り調査によって書き上げた本です。大量破壊兵器といわれるものには、核・生物・化学兵器があり、この中で化学兵器が最も広く使用されてきました。化学兵器とはいわゆる毒ガスで、本書はその中でも神経ガスの歴史に特化しています。かつての軍事機密に触れるような情報はなかなかまとまった形にならないものですが、この本でかなり詳しく知ることができました。

神経ガスの発見、実用化にむけての開発、戦争での使用の歴史をたどり、また国際的な規制と廃絶の努力、廃棄の過程が詳細に記されています。詳細な索引と膨大な参考文献が付記されてはいますが、一般的な読み物としても興味深い本でした。旧日本軍の毒ガスについては言及がありませんが、オウム・サリンについては一章が割かれています。

1997年に発効した化学兵器禁止条約は現在180カ国以上が締結しています。しかし未だに、化学兵器禁止条約を拒否、または批准しない国々(北朝鮮イラクイスラエル、シリア、エジプトなど)が中東などにあり、「貧者の核兵器」として戦争の抑止力のために化学兵器が備蓄されているのです。また、そのような国からテロリストの手に渡る可能性が高いと考えられます。あのオウム・サリンのような悲惨な事件を二度と起こして欲しくありません。また昨今の中東情勢を見たとき、今まさに戦火を交えている国が神経ガスを備蓄しているという現状に暗澹たる思いを持ちました。


************************************* 以下メモ ********************************************

古代ギリシャ・ローマの時代から毒物を戦争に使用することを禁止する努力がなされていた。1675年には仏独戦争で、毒の塗られた砲弾の使用を禁止する初の国際条約が結ばれている。19世紀末、欧州でハーグ条約が締結され、当時まだ開発されていなかった化学兵器に対する禁止条項が盛り込まれていた。

しかし、第一次大戦塹壕戦でドイツが毒ガスを使用し、後に各国がそれに追随した。使われた毒ガスは塩素、ホスゲンなどの窒息性・糜爛性ガスであった。1925年のジュネーブ協定が日本とアメリカを除く主要国で締結され、毒ガスの使用が禁止された。

神経ガス(必ずしも常温で気化するわけでないので神経剤ともいう)は、1930年代、第一次大戦後のドイツで開発された。禁忌という言葉に由来するほどに強力な致死作用を示す『タブン』である。ナチス政権下、イーゲー・ファルベン(共同企業体)でさらに効果の高いサリン、ソマンが開発された。

連合国も同様の神経ガス保有している可能性があったため(実際はなかった)、報復を恐れてヒトラーは毒ガス使用に消極的であったという。第二次大戦では幸いなことに実戦で使用されなかったが、戦後に戦勝国の間でナチスの毒ガスの争奪合戦が起きた。その四カ国の間での争奪戦を巧みに利用して生き延びた化学者たちの姿も克明に描かれている。

1945年10月にはアメリカが日本の諸都市にマスタードガスとホスゲン爆弾を落とすという計画があった。
1950年代の毒ガス廃棄の方法は、廃船に毒ガス爆弾を積み込んで深海に沈めるというものだった。1960年代になっても、アメリカでは毒ガスを含む廃液を安易に地下に埋めて環境汚染を引き起こしていた。米陸軍はデンヴァー盆地の地下12000フィートの井戸に400万ガロンの毒ガス廃液を強制注入したところ、最大マグニチュード4の群発地震が起きた。

冷戦構造の中で、各国の毒ガスの備蓄量が増大していった。西ドイツには米軍によって化学兵器が貯蔵され、1950年代には沖縄嘉手納基地内に秘密裏にマスタードサリンが備蓄されていた。解毒剤アトロピンが効かないVXガスの開発にともなって、PAMなど新しい解毒剤の開発も盛んに行われた。またソビエトにも膨大な神経剤が備蓄されていた。

1962年、ナセル政権下のエジプトがイエメンに侵略的軍事介入を行った際に、北部イエメンの山岳ゲリラにホスゲンマスタードガスを使用した(証拠はないが、神経剤の可能性もある)。1968年アメリカのスカルヴァレー化学兵器実験場から一般の牧場に神経ガスが漏れて、羊が数千頭死んだ。1969年沖縄のサリン貯蔵庫内で漏洩事故があり、米マスコミがすっぱ抜いたことから大騒ぎになった。

この二つの事故によりアメリカの化学兵器政策は転換し、一剤型化学兵器廃棄の方向に向かった。沖縄の毒ガス(マスタードサリン・VX)はジョンストン島(太平洋の孤島)に輸送された。(ジョンストン島には後に西ドイツからも化学兵器が輸送され、後にすべて最終処分された。)

いったん廃止の方向に向かった化学兵器開発は中東情勢の緊迫化によって再開された。貯蔵や取り扱いの容易な二剤混合型化学兵器(発射や爆発と共に、ミサイルや爆弾の中で二剤が混合されて致死性の神経剤が合成されるもの)が主に開発されようとしていた。1974年にアメリカは50年ぶりにジュネーブ協定を批准した。しかしこの頃には、中国、エジプト、シリア、ユーゴ、イラクなど多くの国が神経剤の開発を始めていた。

イラク・イラン戦争で劣勢であったイラクはエジプトを通じて西ドイツの会社と契約を結び、農薬工場(実は化学兵器製造ライン)を作り、政治犯クルド人シーア派)の処刑に使ったといわれる。アメリカはイラク化学兵器使用を知りながら黙認していた(1983年)。1987年にはアメリカ議会は二剤混合型の開発にゴーサインを出し、ソビエトをけん制するだけの目的で、強制捜査を伴う化学兵器軍縮協定を提案していた。ところが一転、ゴルバチョフがそれを受け入れたことでかえって慌てたらしい。

1988年3月、ハラブジャ市で反政府クルド人に対し、イラク軍が毒ガス攻撃を加え、2000―5000人が死亡した。何を使ったのかは当時明らかでなかったが、後にサリンの分解物が検出されている。1991年の湾岸戦争では、イラク神経ガスを使わなかったといわれている。停戦後三年かけてイラク化学兵器廃棄が確認されたはずだった。

米ソの化学兵器軍縮協定ワイオミング覚書違反と環境汚染を内部告発したヴィル・ミルザヤノフの話。ソビエトで起訴されかけ、アメリカに移住した。

オウム・サリンの話。これだけ証拠があったのに事前に摘発ができなかったのは、日本にテロという発想がまったくなかったからなのだろう。

米帰還兵の湾岸戦争症候群は低レベル神経ガス後遺症と関連があるといわれている。イラク南部の兵器庫を爆発処理した時に米兵が被爆した可能性もある。

1998年アムステルダムで墜落炎上した貨物航空機には、アメリカからイスラエルへ輸送中の化学兵器の原材料が積まれていた。

アル=カーイダの息のかかった化学工場がスーダンに作られていた。

モスクワのドゥブロフカ劇場占拠人質事件で、解決に使われたのは一種の神経ガスであった。

神経ガスの廃棄は環境意識の高まりによって経費がかさみ、計画通りには進行していない。例えばロシアの廃棄サリン砲弾はワイン貯蔵庫のようなところにあり、盗難が懸念される。