壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

新世界より(上・下) 貴志祐介

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新世界より(上・下) 貴志祐介
講談社 2008年 各1900円

途中でやめられない面白さです。年末年始に思うように本が読めなかった反動もあって、上下二冊を一日で読んでしまいました。この作家の本はホラーということで今まで敬遠していましたけれど、この本はホラー要素はありません。評判の高いこの本は去年の一月に刊行されているので、年初めに読むものとしては全然タイムリーじゃないですが、図書館でやっと借りられたんです。うちの図書館も上下セットで貸出して欲しいものです。

神栖66町は利根川水系にある田園風景の広がる水郷の町です。化石エネルギーを利用する以前の、のどかな生活のように見えますが、町はかなり管理統制された共同体です。周りには奇妙な名前と習性を持つ生き物たちが住んでいます。そして人間は呪力(念動力)を持っています。

渡辺早紀という主人公が、30代になって回想する形で物語を進行させています。封印された過去が少しずつ明らかになり、世界がどんなものかをだんだんに知る上巻はノンストップの面白さがあります。ただ、モチーフとして使われている動物ネタは寄せ集め風で新鮮味がないなあと思っていました。

ところが物語が進行するに連れて、動物の攻撃性、優生学思想、遺伝子操作と生命倫理など、もっと含蓄のあるテーマが潜んでいました。最後に明かされる真実は衝撃的でした(が、実は予想の範囲内でもありました)。また、渡辺早紀という主人公の成長物語ととらえてしまうと、何かが不足しているような気がします。

こう書くと褒めていないようですが、いやいや充分に面白いです。化石燃料の枯渇と地球温暖化の果ての千年後の世界では、人類はこのように人口密度の低い小さな共同体の中で生活しているんだろうなとか、ミノシロモドキというモバイル型の図書館が一匹欲しいなあとか、妄想がふくらみます。上下で1000ページを軽く超えますが、もっと長くてもOKです。

  


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攻撃 悪の自然誌(1・2) コンラート・ローレンツ
日高敏隆・久保和彦訳 みすず科学ライブラリー 1970年 各500円

新世界より」で言及されていたローレンツの「攻撃」が懐かしかったので、物置で探し出しました。大昔に読んだ本で、内容も少々古めかしいのですが、今でも動物行動学の古典として有名です。パラパラ読んでみましたが、時間がないので、表紙裏の紹介を転記しておきます。

 著者は『ソロモンの指環』、『ヒト、イヌに会う』という楽しい動物物語によって、広くわが国でも名前を知られているが、現在(当時)、ドイツのマクス・プランク行動学研究所の所長である。動物の行動をその自然環境で比較研究する比較行動学という新しい研究分野は博士が創始したものである。本書で著者は、比較行動学の立場から脊椎動物における“攻撃本能“といわれるものに新しい角度から光を当て、その研究成果を通して人間の行動と人間社会の考察に深い示唆を与え、世界各国の専門家ならびに一般読者の間に大きな反響を起している。 

第I巻では、さんご礁を中心とした美しい世界で展開される色とりどりの魚たちの激しい種内闘争のスケッチから筆を起し、さまざまの典型的な攻撃的行動を観察し、同一種族間に行われる攻撃は、それ自体としては決して悪ではなく、種を維持する働きをもっていることを示す。つづいて本能の生理学一般、特に攻撃本能の生理学について詳細な考察を行ない、さらに攻撃本能が儀式化される過程を興味深い実例によって述べる。最後に、種が変化するにつれて、攻撃を無害なものにするためにどのような仕組みが編み出されてきたか、儀式はここでどのような役割を果たしているか、また新たに生まれた行動様式が、責任ある道徳に従っている人間の行動様式とどれほどよく似ているかを、実例を通して具体的に教えてくれる。
 
第Ⅱ巻では、上述の考えに基いて、動物の世界に見られる、四つの非常に異った型の社会体制の役割が合理的に理解できることを詳細に論ずる。第一の型は無名の群で、攻撃ということを少しも知らないが、同時にお互いを個体として識別したり、団結することもない。第二の型は群をなして卵をかえす鳥類の営む家族生活や社会生活で、それは自分がナワ張りとして守る一定の揚所の上にしか成り立たない。第三の型はネズミの大家族で、構成員を一気に共通な体臭によってかぎわけ、社会の一員としての役割をする。ハイイロガンに見られる第四の型には、個体の間に愛と友情のきずながあり、仲間どうしが戦って互いに危害を及ぼしあうのをくいとめる。ここには、人間社会に似た点が多く見られる。

これらの考察から著者は、人間の場合に攻撃がいくつかの誤った働きを持つようになった原因を追究し、その根底には、人間も自然界の一員であり、その行動も自然の因果法則に従うものであるということを拒否する人間の高慢さとその伝統的な観念論の立場が根強く存在して、人間の自己認識を妨げていることを指摘する。そして入間がこのような誤りを謙虚に認めるかぎり、自然から学びうることを強調している。(1963年 原著刊行)