壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

河岸 ものと人間の文化史139 川名登

イメージ 1


「江戸に和む」で知った江戸時代の利根川水運に興味を持ちました。利根川東遷や、江戸時代に年貢米など運輸が盛んだったころ、山本周五郎の「青べか物語」にあるような利根川水系の水運が衰退するまでの経緯を知りたくなったのです。小学生の郷土学習みたいな興味です。

河岸(かし)という言葉は今では地名以外では魚河岸などに残っていますが、本来は川の湊を表したものです。江戸初期には、東北諸藩の年貢米を江戸に運ぶために那珂湊や銚子港が作られ、内陸水系を利用して江戸につながるルートが次第に整備されていきました。さらに江戸という大都市を賄うため、米を初めとする物資の大量輸送の目的で河岸が作られ、物流のターミナルとして賑わいました。

江戸市中には数十の河岸があり、例えば日本橋から永代橋にかけて、魚河岸をはじめとして、米河岸、塩河岸、鰹河岸、醤河岸、多葉粉河岸、桐河岸、竹河岸、薪河岸と商品名をつけた河岸が集中していたそうです。物流だけでなく旅人も行き交う運河の賑わいが、一次資料を基に生き生きと描かれていました。

北関東の水路沿いにあった河岸は河岸問屋が特権的に支配していましたが、年貢米を基盤とした江戸時代の経済構造が崩壊すると共に河岸の構造も変化し、明治時代には水運事業が会社化され蒸気船も運航するようになりました。鉄道が敷設された後にも、より大型の蒸気船を就航させるために利根川運河が整備され、太平洋戦争直後まで川舟が頻繁に往来していました。利根川の水運が本当に廃れたのはトラック輸送が始まってからだそうです。「青べか物語」でも確か蒸気船がでてきたと思います。

第1章 「河岸」とは何か
第2章 河岸のなりたち
第3章 河岸と湊
第4章 江戸の河岸
第5章 河岸の構成
第6章 河岸の生態
第7章 うごめく河岸
第8章 河岸の衰退

時代小説に出てくる江戸の街には掘割がめぐらされていることは知っていましたが、その水路がはるか北関東や千葉にまで続いていたということに納得しました。時代小説で江戸から千葉のほうに船旅をするという記述に、今までなんとなく海をイメージしていたのですが、川舟だったのですね。