壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

孕むことば 鴻巣友季子

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孕むことば 鴻巣友季子
マガジンハウス 2008年 1500円 

とても面白く読みました。40歳で子どもを孕み出産した翻訳家・鴻巣友季子さんが、子育てを縦軸に、文学を横軸にして語ったエッセーです。一歳から四歳までの娘のことばの成長がほほえましく綴られています。幼児のたあいない言葉遊びや笑いをさそう言葉は、ただ記録しただけでは「親ばか」になりかねませんが、鴻巣さんは幼い娘の一言から豊かに連想を広げ、翻訳や小説のことはもちろん、自分自身のこと、母子関係などに考察が及んでいきます。

鴻巣さんは、娘と過ごす日々を「神様にことばの建築現場を見せてもらっているようだ」と喩えています。母としてのあふれんばかりの愛情とともに、娘に対する冷静な視点を持っていることが感じられます。また翻訳家の言葉に対する感性の鋭さに驚かされることがたくさんありました。一歳三ヶ月で初めて発したという間投詞「もう!」に関する、鴻巣さんの考察には爆笑しました。ことばの裏を読まれたい女と、女心に裏があると思わない(思いたがらない)男の違いは、一歳くらいから始まっているそうです。

あと、なるほどと感心した部分を引用しておきます。実際、わたしのお腹から出てきた小さな生きものは、おかしなことばを次々と創りだす閃きの宝庫、ことばの宝島だった。翻訳のヒントまでもが大判小判のごとくざくざく埋まっていた。娘が2歳のころ、「何々したかったのに」という言い回しを多用した時期がある。なんだか、should have (been)を使った仮定法の英文和訳みたいだなあ、と聞くたびに思ったものだ。たとえば、彼女は目の前に滑り台があると、「滑り台で遊びたい!」ではなく、なぜか「滑り台で遊びたかったのに……」と小さな声で言う。「どうせ遊んではだめと言われるでしょうけれど」というifの条件節が省かれた文型(?)なのだな、と母は考えたりする。ところが、この言い回しは意外な効果を発揮した。仮定法過去の表現が幼児のロから出ると、妙にいたいけで切ない余韻をのこし、ついつい「なら、ちょっとだけ遊んでいいよ」と言ってしまうのだ! ひょっとしてまんまと娘の術策にはまっていたのか? 敵もさる者である。(P232:孕むことば)

「何々したかったのに」という言い回しは、ウチの娘も幼い時に使っていましたが、あれは仮定法過去だったのかぁ、と楽しみながらも勉強にもなりました。解説や書評は読んだのですが、そういえば、鴻巣友季子さんの翻訳作品をひとつも読んでいないことに気が付きました。さて、何を読もうかしら。