壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

ビルマの鳥の木 多田富雄

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ビルマの鳥の木 多田富雄
日本経済新聞社 1995年 1600円

「Y氏の終わり」に出てきた『ミス・ラスロップのねずみ小屋』の話を確かめたくて探していたら、この本に行き当たりました。「免疫の意味論」という名著のある多田さんは、免疫学者にして新作能の作者でもあり、病で声を失った後もいくつもの著作があります。いまさら言うまでもないことだけれど、簡潔にしてわかりやすく、かつ奥深い文章です。

生命科学関係の本はあらかた読んだけれども、エッセイは初めてです。著者あとがきに「あちこちに書き散らかした随筆」とあるように、年代も初出誌も題材も多岐に渡っていますが、その「散らかり方」には一本筋が通っています。死を見つめ、その先の生を遠い眼差しで見通すような視点が感じられます。

ビルマの鳥の木」では、国外からの援助を断たれ医療の立ち遅れたミャンマーでは「死」が身近に氾濫しているという。ヤンゴンのホテルの前の、鳥が無数に群がる一本の木の下で、強烈な生命の営みに隠れている死の声をきいたそうです。

同じ視点で「死のかくも長いプロセス」では、脳死尊厳死の問題において、死の「感知」と「認知」の違いがわかりやすい言葉で議論されています。身近な人の「死」を直感的に「感知」することと、知識と概念によって医学的に「死」を「認知」することは明らかに違うものだということです。

著者の手になる新作能「無明の井」は脳死と臓器移植を題材にしたもので、技術論ばかりを優先し日本人の死生観や文化をなおざりにすることへの警鐘であるようです。脳死したドナーが現れて、死者の側から脳死の精神的受容を問うということで、能という表現形式は人間の根源的な問題を問いかけるのに優れているといいます。かなり以前にNHKで放映されていたのを見逃したのが残念。御不自由な身で書かれた最近のエッセイも読みたいと図書館で探しましたが、どれも貸し出し中でした。