壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

老いの空白 鷲田 清一

老いの空白 鷲田 清一

岩波現代文庫 Kindle Unlimited

70を超えてから,いろいろのことができなくなった自分を感じている。

要するに「老いる」ということが気になってしょうがない。70歳は○○○,終活,老活,アンチエイジング,年金暮らしとか,そういう方面の本を探すのだが,読むに至っていない。老いない健康法を知りたいわけではない。認知症にならない方法なんてあてにならない。長生きしたいわけでもない。「こうやって老後を工夫して暮らしています」なんていう話を聞きたいわけではない。悲惨な老後が待っているという話はもっと聞きたくない。

面白い本を読んでいる時には,自分の老いを一時的に忘れて呑気に過ごしているが,ふと我に返って「何もしていない」自分,世の中の役に立つことを一つもしていない自分に,いたたまれなくなることがある。雪の降らない土地でぬくぬくと稼がずに暮らしていける事に感謝しつつも,こんな風に暮らしていていいのだろうか?と,この歳になってもまだ自己存在の確認をしたくなってしまうのだ。一人になって,60歳から10年ほどは福祉系のボランティア活動をしていたが,自己存在の社会性に悩んだ。でも,若い時のように長く悩むことはない。たいていは「まあいいか」,「これでいいのだ」とあきらめる。しかし,あきらめるには多少の意志の力と論理的背景が必要だ。

今はまだ,いわゆる自立生活をしているが,これが他人の力を借りないと暮らしていけない要支援/要介護の状態になったとき,役に立たない自分,他人に迷惑をかける自分を,自分自身が受け入れることができるのだろうか? 両親の遠距離老々支援/介護を7年して,どんなふうに「人が老いていくか」を両親に教えてもらった。でも,どんな気持ちだったのかを聞いていないような気がする。親の気持ちに寄り添っていたのだろうか?

前置きが長くなったが,そんな悩みを感じていた時に,本書『老いの空白』を見つけた。読みやすいとはいえ,哲学者の書いた本だからHOW TO~ではないので,なにかの結論があるわけではないが,「老いとは何か」「老いて生きていく意味」を考えさせてくれる本だった。書いてあることを要約するには能力不足なので,抜き書き程度に記しておく。

・現代の超高齢化社会では,あまりに急激に起きた社会現象のために「老いのかたち」「老いの文化」が未だ明白なモデルとして定義されていない。それを「老いの空白」と呼んでいる。そしてその中で「老い」は,「高齢者問題」「介護問題」「福祉問題」などの「問題」としてしか問題にされない。老いは「問題」ではなくて「課題」なのである。

・近代の産業社会が「生産性」を優先する「生産力主義」が,「老い」を役に立たないものとしている。何かが「できる」ことが評価されれば,「できない」者(老人も障害者も)の価値はなくなる。しかし「できない」ということは本来,人生の中にたくさんある事であり,「できる」ことが優先されれば若者にとっても生きにくい社会である。「できない」ことを内包した社会こそ成熟した社会である。

・競争社会の中で,「できる」「強い」ことに価値を置きすぎると,老人に限らず誰もが「自分はここにいてもいいのか,ここにいることに意味があるのか」という切ない問いを自分に向けなければならなくなる。「できない」「弱い」ただ「ある」だけ,「何もしない」ということに価値を見出す共同体の存在は重要だ。

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キリがないので,最初の疑問に戻ると,

70を超えてから,いろいろのことができなくなった自分を感じている。ことについて

多田富雄「老化と免疫系」からの引用として,生命過程としての老化現象には基本的な法則が見つからない。個体発生や分化に見られる規則性は,老化には見当たらない。多重で不規則,不連続な現象の集合体が老化であるという。能の「関寺小町」に,庵に住む老女となった小野小町の「また古事になり行く身の,せめて今は又,初めの老ぞ恋しき」という謡がある。つまり,老いの過程は人ぞれぞれで決まった道筋がないということ,さらに多重的に老いていく,老いに老いを重ねながら老いていくという様相がある。「老い」に気付くというのは,まさに「できなくなった」ことに気付き,その状態に慣れたころにまた別の「できない」が出来するのが老いである。

 

つまり,「できない」を感じることで老いを悟るのは当然で,この先どんどん老いていくわけで,「できない」ことを目指そう 毎日が老いの過程 毎日が老いの練習 

自己啓発本を読んだ時の感想のようになってしまった・・・