壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

黒の過程

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黒の過程   マルグリット・ユルスナール 
L' Oeuvre Au Noir   Marguerite Yourcenar
岩崎力訳 白水社 2001年 3200円

須賀敦子ユルスナールの靴」で取り上げられていた小説です。是非読みたくて読み始めたのですが、最初は全く歯が立ちませんでした。ひと言もゆるがせにできないような堅牢な文体、冗長性のない文章は直感的には理解できず、読む者を拒むかのようでした。さらに、この宗教改革の時代の思想史を知らないために、事実と虚構の入り交ざったこの物語が全くイメージできませんでした。

ユルスナールが二十歳前後にすでに構想を持っていたというこの思想的歴史小説は、完成までに40年かかっていて、16世紀の古文書まで調べて、細部にまで事実の重みを持たせたということですので、読むのを一時中断し、「世界の歴史」で時代背景と登場人物の名前を確認し「科学と宗教」を読み、登場人物の関係を図にして、やっと物語が迫力を持って浮き上がってきたのです。
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16世紀のはじめにフランドル地方ブリュージュに生まれたゼノンという架空の人物は、錬金術や医術などを学び、ヨーロッパ各地を放浪しながら哲学の書を著します。その本は禁書となり、身をやつして生まれ故郷の町で医師として蟄居生活を送ります。しかし最後は牢獄につながれ、生を終えるのです。

作者の覚え書きによれば、ゼノンの原型は錬金術師にして医師であるパラケルススですが、それ以外の同時代の多くの文人、哲学者のエッセンスが少しずつゼノンに注がれているといいます。ルターの論敵であったエラスムス、外科医アンブロワーズ・ドレ、哲学者カンパネッラ、宇宙の複数性を唱えたジョルダーノ・ブルーノ、解剖学者ヴェサリウス、数学者ジェロラーモ・カルダーノなど。

ユルスナールは、アルブレヒト・デューラーの「メランコリア」の中の人物に、ゼノンの苦しげな思索を見ています。宗教と科学と魔術が融合する時代に、真実の深淵をのぞき込み、宗教のための戦争に明け暮れる騒乱の時代に、真摯に自己を見つめるゼノンの陰鬱が現れています。
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死の床にあるカトリック修道院の僧院長とゼノンの会話には、悲惨な死が日常を埋める時代になぜ神は沈黙するのかという疑義が持ち出されます。しかしゼノンも信仰を捨てることはありませんでした。立場は全く異なるけれど、ゼノンと僧院長の、誠実に生きる二人の信頼関係は救いです。