壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

鏡の影

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鏡の影 佐藤亜紀
新潮社 1993年 1500円

宗教改革と農民戦争の時代、ヨハネスは、錬金術師である叔父がもっている、世界を変える秘儀が記述されているという本を見ました。しかしそれは白紙で、以来彼は、“世界を覆す一点”を求めて探求の旅にで出かけます。

これはまさにユルスナールの「黒の過程」の世界で、そしてこの知の探究者はゼノンみたいではないかと最初は思ったのですが・・・。しかしそのお供は堕天使らしき金髪の美少年シュピーゲルグランツで、望みをかなえる代わりに魂を、という契約をヨハネスは交わしてしまいます。このシュピーゲルグランツは妙に、コミックに出てくるようなキャラクターです。

さらにフィヒテンガウアーという騎士の恨みをかい、命を狙われボーレンメントに逃げ込む事になります。ボーレンメントは、再洗礼派が占領したミュンスターのような町です。「黒の過程」ではミュンスターで、ゼノンの生みの母が騒乱に巻き込まれて処刑されています。ボーレンメントでは、マールテンという修道士が巧みな説教で市民をなびかせ、修道院長を追い出して市政を牛耳っています。そして追い出された修道院長一派が町を包囲しています。中にいる市長や参事たちも、外にいる司祭たちもみんな俗物で、こそこそ、うろうろと陰謀の日々をおくっています。

ヨハネスは異端審問を受け、マールテン師と論争を繰り広げるのですが、もうこのへんから、どうしようもないばかばかしさが炸裂。議論のための議論は結局のところ体力勝負です。知の探求をしているはずなのに世俗的な欲に取り付かれ、やっとたどり着いたと思った世界の秘儀もただの思い込み?。

異端審問でも節を曲げずに焚刑に処せられたあの時代の哲学者たちとは大違い。でも哲学者だって火あぶりにされたくなくて、節を曲げたり、うまく立ち回って逃げたものが大多数だったでしょう。ゼノンは火に焼かれることを避け、自ら死を選びましたが。

会話や状況説明が多くて、「天使」ほど冗長性のない文体ではないけれど、おもしろかったですね。おどろおどろしい中世の道具立てのいろいろな趣向や引用があって(たぶん気が付かないものも多数あるでしょうが)、佐藤亜紀氏の知識の厚みを感じます。最近読んだ「黒の過程」を思い出してつい比べてしまうせいでしょうか、「鏡の影」には自然哲学や宗教改革における教義論争を哄うひそかな皮肉と諧謔を感じました。