壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

読書力

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読書力 斉藤 孝
岩波文庫 2002年 700円

人はどのように本を選んでいるのか知りたくなって、斉藤孝さんの「読書力」を借りました。図書館のこのコーナーには、たくさんの読書本が並んでいます。ずっと前に立花隆の「ぼくはこんな本を読んできた」を読みましたが、今覚えているのは、立花さんの書庫がすごかったということだけです。ありとあらゆる本を読んでいたような気がして、素人の参考にはなりませんね。

斉藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」も読んでないのですが、たぶんこの著者ならば、ニュートラルな本の選択をするだろうという予想のもとに、読み始めました。さすがに、非常にこなれた日本語で読みやすく、文字も大きく、200ページの新書を一時間で読みおえました。

読書というものについて、なんとなく考えてきたような事がきっちりと文章になっていて爽快な気分です。ただ、“人はどのように本を選んでいるのか”という疑問に対する答えはありませんでした。“人はどんな本を読むべきか、どう読むべきか”ということが繰り返し述べられているのです。今どきの、本を読まない若者に、読書をさせるにはどうしたらいいのか、若い人に、エンターテインメント系は除いて、文庫100冊、新書50冊を4年間で読ませるには、など、具体的な方法が述べられています。

三日たつと忘れるので、いくつか内容をメモしておきます。

日本人がかつて持っていた高い読書力は、明治維新後の急速な近代化が要請したものであり、宗教を共有し聖書という特別な本(The Book)をもつ欧米とは異なり、日本国民の基礎的倫理観は多量の読書によって培われてきたかもしれない。そして幅広い読書をすることで、ひとつのものを絶対視するような危うい自己形成を避ける事ができ、アイデンティティーは重層的になり安定してくる。

本は本の連鎖を生む。一冊読むと次に読みたくなる本がでてくる。全く縁もゆかりもない本を読むのはつらいが、ひとりの著者がきっかけで、本の網目がどんどん広がっていく。関心も微妙にずれて広がりを持っていくことが、世界観の形成に役立つ。一人の著者だけを偏愛しているのでは、世界観の形成には限界がある。うまくずらしながら増幅させていくのがいい。

「繋がりながらずれていく読書」というこの部分を読んで、非常に心強く感じました。自分の持つ脈絡のない好奇心のようなものは、実は脈絡があるのではないかと思い始めました。(池澤夏樹氏の「ブッキッシュな世界像」に「世界に脈絡はあるか?」という項があったのですが、ちゃんと読まないうちに返却期限で読めなかった。残念、また借りなきゃ。)好奇心によって本を読むと、得た知識(経験、思索でもなんでも)はリンクしてつながっていきます。知識がネットワークのようにつながっていく楽しさを時々味わう事があります。

もう一つ共感したのが、「本の並べ方が大事」の項です。ジャンル別に分類するのがいいとは限らない。ちがうジャンルの本を内的なつながりを考慮して並べるのが好きだ。自分との距離感、系譜の意識をはっきりさせたい。他人から見ればめちゃくちゃな配列なのに、当人の中ではいろいろな本がつながっているということになると、その本棚は、その人の世界観を表すものといえるというところは、なるほどと思うと同時に、少々戸惑います。

私がこのブログで、書庫を一つしか作らない方針なのは、読んだ本同士が互いにリンクして分類できないと考えているからです。読んだ本の時系列で並べるのは、ある意味正しいと思います。(分類は面倒くさく、ブログの日付が変えられないだけですけれど。)そしてリンクは一次元でなく、二次元的な広がりをもつネットワークであるはずで、なるべく本同士をハイパーリンクでつないでいこうと考えています。

このブログ形式だと不自由な事もあり、タグ検索できるような形が取れたらいいのですが、自分では今のところできないのであきらめています。たかが100冊の本では意味がないので、1000冊になったらとも思いましたが、十年はかかりそうです、hahaha。こんな事で世界観を表すかどうかは疑問ですし、世界観が表れてしまうと考えると、自由な好奇心が失われてしまいそうです。しかし、もう少し考えてみると、自己組織化するネットワークが世界観を作り出すか、とか妄想が暴走します。

(あとで気付きました。ブログ内の検索ボタンはメニューにあるじゃないですか!。)

本はなるべく自分で買って本棚に並べるべきという見解には、大賛成ですが、今はもう実行できないのが残念です。経済事情、住宅事情がありますので、バーチャル書庫で満足しています。ボルヘス「バベルの図書館」「砂の本」 に惹かれるのも、バーチャルなイメージのためでした。本は大好きだけれど、東南海地震で本に埋もれて死ぬのは本望ではありません。

本に線を引いて読むという行為は、自分の本であっても、たぶんわれわれの年代には非常につらい行為です。本がかなり貴重だった時代に育ちましたので、ましてや三色ボールペンで書き込むなどもってのほかです。若い人たちは抵抗がないのでしょうね。

巻末には、文庫百選お勧めブックリストがありました。三割以上は未読でしたが、なかなか唐突には読む本を選べません。このリストの中で、読みたいと思っていた本を思い出しました。辺見庸「もの食う人々」。百冊のリストは14のカテゴリーに分けられていますが、もっとも読んでないカテゴリーは『生きかたの美学・スタイル』でした。その中で気になったのは須賀敦子ヴェネツィアの宿」です。この著者の「コルシア書店の仲間たち」をチェックしていましたので。

リスト以外に、この本を読んでから読みたくなった本は、斉藤さんがお子さんに読んで聞かせたという「ギルガメッシュ王ものがたり」三冊シリーズ(岩波書店)。もう一つはHPで見つけた訳本で、「ダーウィンの危険な思想」ダニエル・C・デネット著,山口泰司監訳,石川幹人,大崎博,久保田俊彦,齋藤孝 訳 (文藝春秋,2002,\1,238)。こんな本を訳しているの?という好奇心です。

「本を読んだら人に話す。」ことで、記憶が定着するそうです。近場に話をする友人がいない場合は、書くといいそうです。たしかにこのブログを書くようになって、記憶は増強されたようです。でも本は夕食後一時間で読んだけれど、この文章を書くのに夜中までかかってしまいました。