壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

自転車泥棒  呉 明益

自転車泥棒  呉 明益

天野健太郎 訳  文春文庫   電子書籍

歩道橋の魔術師』のノスタルジーを求めて読み始めたのだが、いい意味で裏切られた。

かつて台北市にあった「中華商場」で育った「ぼく」の父は、20年前に自転車と共に失踪した。「ぼく」は古い自転車の愛好家で、自転車の失われたパーツを探しているうちにいろいろな人物に行き会う。その人たちの断片的な記憶や物語を拾い集めるようにして、父親と共に行方不明になった自転車にたどり着くという、不思議な物語だ。史実のなかに虚構があり、その境目は判然としないが、その曖昧な境目こそが魅力でもある。

自転車をめぐって、家族の歴史、台湾の歴史が語られている。戦前の日本の植民地時代、第二次大戦、戦後共、多民族からなる台湾の人々にとって、過酷な時代だったはずだ。しかし、真正面から歴史が描かれるわけではない。個人の経験の中で語られる苦しみや悲しみは、我々皆に共通の感情に敷衍されていく。

個人的な体験としての戦争は、マレー半島に攻め入った日本軍の銀輪部隊の自転車の記憶として、また北ビルマの密林での戦闘に利用されたゾウの眼を通して、描かれている。第二次大戦のアジアでの戦いの場面を読むとき、侵略者としての日本の立場を思わずにはいられない。そうした要素はあるだろうが、それを前面に感じさせない寛容さがこの作品にはあるように思う。

最後に、母の病室で自転車を空漕ぎしながら、時間や国を飛び越えて幻想的に疾走する「ぼく」の見る白日夢の描写が圧倒的だった。

他国の思惑に翻弄されてきた台湾の歴史をもっと知らなければならないと思った。