壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

疫病と世界史 続き

マクニールの疫病と世界史のメモの続きです。5000字を超えてしまいましたので。

第5章 大洋を越えての疾病交換 紀元1500年から1700年まで
新世界が旧世界に如何に侵略されていったのか。新世界では生物学的多様性は低かっただろう。メキシコやインカではトウモロコシと芋(単位面積あたりのカリロー最大)のため人口稠密であったから、旧世界からの感染症が定着する下地があった。

征服直前の原住民の総人口は推定一億。メキシコで二千五百万から三千万で、50年も経たない1568年にはメキシコ中心部の人口は十分の一の三百万になり、1620年には百六十万に減った。

現代の実例では、1942年アラスカ高速道路の開通に伴い、多くのエスキモーがはしか、風疹、赤痢、百日咳、おたふく、扁桃腺炎、脳脊髄炎、カタル性黄疸にかかったが近代的医療のおかげで、死者は少数だった。

コルテスがメキシコに持ち込んだ天然痘は、インカにも広がりピサロの侵入を許した。疫病を神の怒りの印とし、白人が悪疫に対し不死であることから、インディオたちはスペイン人の優越性を受け入れざるを得なかった。

天然痘ばかりか、はしか、発疹チフス、インフルエンザ、ジフテリア、おたふく、など繰り返し流行り、さらにアフリカから持ち込まれたマラリア、黄熱病も熱帯に定着した。カリブ沿岸でのアフリカからの黒人の増加は、マラリアに対する疫学的優位性もあった。

新世界から旧世界にもたらされたと信じられている梅毒は、フランベジアを起こさせるトレポネマ(スピロヘータ)が、人間の行動様式の変化によって、STDになったものではないだろうか。
発疹チフスや梅毒は、流行はあったが、人口動態に大きな変化をもたらさなかった。

ペストによって激減した旧世界の人口は17世紀末には人口の増加が起きた。
日本に関する文献は、「富士川 游 日本疾病史」による。

第六章 紀元1700年以降の医学と医療組織がもたらした生態的影響
感染の危険を減殺する民間医療や習俗(俗信と行動規制)が人類共同体を感染連鎖から絶縁してきた例もあろう。(タミル人は水を家の中に貯めることを禁止していたが、それがデング熱マラリアの予防に効果があったらしい)。しかし効果のないものやかえって有害なものも多い。

巡礼という行為は疫病の流行を引き起こす点で戦争と同列である。
近代の医療はたぶんに経験主義的であったが、新方式に開放的であったことが目覚しい進歩をもたらした。ペスト感染の連鎖を断ち切るのに有効であった隔離検疫制は、“伝染”という概念が正当化した。

都市において多くの感染症が小児病となり、ペスト、マラリア天然痘(種痘による予防)など、致死率の高い感染症が減少し人口増加が起こると、理不尽な死を説明する神の摂理よりも、機械論的な世界観が受け入れられるようになった。

産業革命による食糧生産や分配の向上とともに、すばやい輸送手段による感染の拡大も考えられる。さらに中心的諸都市への周辺からの人口流入感染症との遭遇をもたらした。

19世紀の終わりになってやっと感染症の病原体を突き止め医療技術が勝利を収めたかのように見えるが、生態学的問題の常として決着がつくことなどありえないと思われる。

水を介した感染症コレラなど)は上下水道の整備により激減したが、整備されていない地域でも、国際的な援助のもとにコントロールできた。

マラリアはWHOの制圧プログラムの目標となったが、DDT耐性昆虫の出現がどのように影響するか不明(当時)。

軍事医学行政の飛躍的進歩は日露戦争における日本軍の成功に端を発する。新兵に一連の予防接種を施すことで、病気による兵力の消耗を抑えた。

抗生物質等薬剤の使用、行政上の栄養管理でますます感染症は減ったが、同時に生活の清潔さが別の感染パターンをまねいた。ポリオウイルスに対する免疫をもたないまま成長し、かえって重篤な症状を招いたため、ワクチンが必要となった。

インフルエンザは相変わらず猛威を振るっている。ウイルスの突然変異のためワクチンを常に新しく準備しなければならない。コレラの菌種交替(セレベスがベンガル型に)も観察される。

いわゆるバイオテロ(この言葉は使っていないが)による破滅的結末のおそれさえある。

人類の出現以前から存在して感染症は人類と同じだけ生き続けるに違いない。そしてその間、これまでもずっとそうであったように。人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続けるだろう。(メモ終わり)

読むのに疲れました。途中で体調不良で発熱し、とんでもなく長くかかりました。
内容の濃いもので、このように綿密な実例を挙げながら、大胆に切り込んでいく手腕は見事です。本当に名著です。