壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

ユルスナールの靴 須賀敦子全集3

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ユルスナールの靴 須賀敦子全集3
河出書房新社 2000年

ユルスナールの靴
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまでを生きてきたような気がする。」(プロローグ)

須賀さんは自分の生き方を探して、ユルスナールの遍歴とその作中人物(皇帝ハドリアヌス)の生涯を辿ったのでしょう。如何に生きるべきかと自分自身に問い続けることは、いくら滑らかで美しい文章をもってしても、胸を突くような苦しさがあります。それでもその苦しさを須賀さんと分かち合ったような気もしました。でも如何に人生を終わるかについてはほとんど話さないまま、彼女は急いで逝ってしまったのです。

著者自身の記憶、旅の風景、ユルスナールの放浪、ハドリアヌスの思い、段落ごとに交替しながら、波のように次から次へ押し寄せるイメージに圧倒され、眩暈を感じるほどです。そしてこれが、一人の作家の評伝になっていることに驚くばかりです。

ユルスナールを読んだことはないのですが、「ハドリアヌス帝の回想」をすぐに読もうとは思えません。何か躊躇するのは、西洋史を知らないという引け目があって、須賀さんのようには読めないと思うからかもしれません。図書館には、白水ユルスナール・セレクションがそろっているので、いつかそのうちに、とは思います。完結した塩野七生さんの「ローマ人の物語」を先に読もうかとも思い(全く未読なのがうれしい)、また、三十五年も前に読んだ辻邦生の「背教者ユリアヌス」を物置で探そうと、ウロウロしてしまいました。

16世紀当時、異端であった自然哲学をこころざし、アルケミストの道を選んだゼノンの話「黒の過程」はすぐ読んでみたいのですが、図書館に行く間もないまま、この全集本の返却期限が過ぎてしまいました。今週末には読了して、「黒の過程」(白水ユルスナール・セレクション第二巻)を借りにいく予定です。自然哲学と宗教の問題の方が取っ掛かりがありそうです。

時のかけらたち
西欧の歴史や文化の長さを感じさせる短編集で、素養のない私はただ、耳を傾けるばかりです。子どもの頃、本をよむと世界の果てまで行ける!と感じたことを思い出しました。数々の聞いたことのない名前も、事実かどうかいちいち確認せずにそのまま受け入れて、イタリアという、私にとっての世界の果ての話を楽しみました。

ヴェネツィアの悲しみ」で、ヴェネツィアの営みがはてしない虚構への意欲だと感じた須賀さんの感性によりそって、この島の影の部分を思いました。「チェザレの家」は宏壮な屋敷で、壁という壁が本棚で埋まっていました。お菓子の家ならぬ本の家だそうです。

地図のない道
冒頭、「本のほうから、読んでほしいと声をかけられた」という言葉、最後の「知識は連なってやってくる(本の中で出会って気にかかる事は、短時間のうちに本の中や、人との会話の中に繰り返される現象)」にすっかり共感してしまいました。本を読んでいると、本当にこのような体験をするのです。

ユダヤ人のゲットー(イタリア語ではゲット)をめぐる話。ローマにもヴェネツィアにも古くからゲットがありました。須賀さんは常に異国を生きるユダヤ人の悲しみに、自分の悲しみを重ね合わせてヴェネツィアの幾多の小さな橋を渡っていきます。そして記憶の中の、大阪の橋を渡りながら、亡くなった祖母を思うのです。そして娼婦たちのヴェネツィアとなおる見込みのない人たちのための病院Ospedale degli incurabili(「ザッテレの河岸で」)。

「ヴェネツィアの宿」を読んだ時には、Google EarthGoogle Mapで空からこの都市をさんざん眺めましたので、サンタ・ルチア駅の場所も、アドリア海に面したリド島も、トリチェッロに渡るための水上バスを待っていた、サン・ミケーレ島の向かいの河岸も位置関係がわかるようになりました。実際のヴェネツィアはとんでもない迷路だそうですが、フィクションの中の、架空の地図を見ているようで、厭きることがありません。

須賀さんは、夫を喪った年の夏、友人に誘われてリド島で過ごしますが、うまく話すことも笑うこともできず、あまりにかわいそうで、貰泣きしてしまいました。汚染の進んだ汽水湖、トリチェッロの廃墟。千年も前に作られた人工の浮島であるヴェネツィアは、とてもはかなげに感じられます。

またまた私は、ヴェネツィア干潟の泥に足をとられそうになりましたが、この島の電力や水道は本土から供給されているとして、排水下水システムはどうなっているのだろうと思ったとき、現実に引き戻されました。