壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

ヴェネツィアの宿 トリエステの坂道 須賀敦子全集 2

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ヴェネツィアの宿 トリエステの坂道 須賀敦子全集 2
河出書房新社 2000年 
全集の函写真はルイジ・ギッリ「モランディのアトリエ」/文庫版と同じ

ヴェネツィアの宿」
1992~3年の一年間「文学界」に連載された12の短編から構成されています。ヴェネツィアの宿/夏のおわり/寄宿学校/カラが咲く庭/夜半のうた声/大聖堂まで/レーニ街の家/白い方丈/カティアが歩いた道/旅のむこう/アスフォデロの野をわたって/オリエント・エクスプレス

ヴェネツィアの宿で偶然耳にしたコンサートの音楽が、回想のきっかけとなります。どう生きるべきかという根源的な問い、日本での家族の確執から半ば逃げるようにパリ留学したこと、戦争中に疎開した田舎での暮らしと親族との交流、多感な時代を過ごしたカトリック系の寄宿学校でのシスターたち、再びローマでの留学生活、一時帰国時の両親との関係、母の思い出話とその信仰、夫の死とその後のイタリアでの暮らし、日本への帰国、京都での不思議な体験、パリでのカティアとの出会いと数十年の時を経ての再会、夫との生活とわかれ、父の死。

「ミラノ 霧の風景」「コルシカ書店の仲間たち」では、須賀敦子さんはあまり自分のことを話しませんでした。ここでも、自分のことを、あくまで記憶の中の出来事として語っているようです。鬼籍に入った親族のことを語るときにも、いつもの言葉です。自伝的ではありますが、エッセイともフィクションともいえるような短編で、ますます惹き付けられてしまいます。

マンローの「林檎の木の下で」を読んだばかりなので、よけいそう思うのかも知れませんが、記憶というのは、叙述的虚構が自然と入り込むのがふつうです。自伝的短編の面白さは、いや、どんな物語の面白さも、事実と虚構の境界をなす低い壁の上をふらふら歩くところにあるような気がします。時系列には並ばない構成は、もちろん意図的なものでしょうが、記憶をたどる時のあの恣意的な感触がよく表われています。

いくつもの印象的な文章表現があって、つい読み返してしまいます。パリの貧乏学生だった須賀さんは悲しい事も多くて、「自分ひとりで持ちきれない荷が肩にのしかかるのを感じると、私はその重さを測りに橋をわたってノートルダムに出かけた」そうです(大聖堂まで)。

「死に抗って、死の手から彼をひきはなそうとして疲れはてている私を残して、あの初夏の夜、もっと疲れはてた彼は、声もかけないで行ってしまった。」という夫の死にたいする一言は、ナポリ郊外の遺跡で思い出す「オデッセイア」のアスフォデロの野の場面と呼応して、未だ語ることのできない深い悲しみを伝えます。


トリエステの坂道」
須賀敦子さんの後を追って、見たこともないトリエステの細い坂道を登る。なぜこんなにウンベルト・サバにこだわるのか、その詩人の事を何も知らないまま、ただひたすら彼女の話を聞きたくて、彼女の肩ごしにトリエステの風景を覗く。ウィーンとフィレンツェの二つの文化をもつトリエステ、イタリアにありながら異国を生きる町に、須賀さんがなぜそんなに惹きつけられるのか、あまり理解できないまま、一連の短編に耳を傾けた。

トリエステの坂道/電車道/ヒヤシンスの記憶/雨のなかを走る男たち/キッチンが変った日/ガードのむこう側/マリアの結婚/セレネッラの咲くころ/息子の入隊/重い山仕事のあとみたいに/あたらしい家/ふるえる手

ミラノでの生活と、夫の死後も続いた夫の親族との交流を、いろいろな視点から冷静に話してくれる。鉄道員だった義父、四人の子どものうち三人も喪ってしまった義母。そこには限りない哀惜の念と、暖かな眼差しが感じられる。でも「ミラノ 霧の風景」の中で聞いたコルシカ書店を巡る文化的な雰囲気とは異なる、ひどく現実的で、経済的には恵まれない生活もあった。

「須賀さんは、人間というものが好きなのですね」と、つたない言葉で問いかけてみた。日本に帰国する前になって、やっと見せてくれた義母のハンカチほどの小さな菜園。甥のカルロがパラシュート部隊に入隊した事、義弟アルドの新しい家。そしてローマの教会の暗闇に掲げられた、カラヴァッジョの「マッテオの召出し」を見ながら、白い光をうけた少年とみにくい手の男の両方を見捨てられないと話す須賀敦子さんの言葉が、さきほどの問いに対する答えなのかもしれない。
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ミラノの霧の中に迷い込んでしまい、耳石を失ったヤドカリのような気分で、私は平衡感覚を取り戻すために、棲みかとなる新しい本を探してふらふらと図書館と本屋に向かいました。