壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

日本のルイセンコ論争

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日本のルイセンコ論争 中村禎里 みすず書房 1997年(原著は1967年) 2200円

ルイセンコ学説の興亡 個人崇拝と生物学 メドヴェジェフ 金光不二夫訳 1971年 
河出書房新社 950円

日本のルイセンコ論争を読む前に、「ルイセンコ学説の興亡」を読み返しました。著者のメドヴェジェフはソ連の遺伝学者で、逮捕拘禁された経験をもち、この本も当時はソ連で出版できなかったそうです。
1960年代の初めはソ連でルイセンコ学説が科学界を席巻していた時代で、ソ連分子生物学の分野で決定的に遅れを取ってしまったといいます。ソ連では、誤った科学思想が政治的プロパガンダに利用されたことに尽きるのですが、日本でルイセンコに影響された進歩的知識人はどのように考えたのでしょうか。

中村禎里さんは、ルイセンコ学説が、思想的立場を別にして、支持された原因があるとすれば、それは当時の生命現象の形態的把握の限界からの脱却にあったと言っています。遺伝生化学などの物質代謝と、もっと高次の生命現象の間にある深い溝を埋めるには、分子生物学的手段が必要だったけれど、1950年代のはじめでは、この溝をうめつくす見通しがたたなかったのです。その閉塞感から、一時的にしろルイセンコのような説が支持されたということでしょうか。

しかしルイセンコ論争は、日本においても、純粋に学問上の論争として終始せず、いわゆる階級闘争と重なりました。獲得性質の遺伝が盛んに議論され、実験的方法よりも、方法論や歴史的方法が議論を進める上で重要だとするルイセンコ派の主張について、著者は歴史的方法は実証そのものであり、実験は実証手段であるから、対置することはできないといっています。また正統や権威にとらえられた科学者同士のルイセンコ論争自体が不毛であったと述べているのです。さらにヤロビ農法実践をめぐる社会運動家たちの動き、レッドパージ時代の学生運動などが語られています。登場人物は、著者の周辺の人物だったでしょうが、全て敬称なしで(著者本人も、三人称で)取りあげられています。

農業生産性の向上、分子生物学の台頭、本家ソ連での衰退とともに、ルイセンコ学説は、1954年を境に日本で影響力を急激に失っていきました。反ルイセンコ派(駒井卓、田中義麿、吉川秀男ら)の総攻撃がはじまりました。その中で、ルイセンコ派がとった行動を三つの類型に分類しています。第一は、ルイセンコの衰退は単なる役職の交代または研究の専念と考える人々(菊地謙一、柘植秀臣ら)、第二はルイセンコ学説は正しいが、農業行政、科学行政に誤りがあったとする人々(松浦一、福島要一ら)第三はミチューリン主義は正しいが、ルイセンコ説の個々の内容には再検討が必要とする人々(八杉竜一、長塚義男、木戸良雄[伊藤嘉昭]ら)です。1950年代の後半になって、レプリカ法(レーダーバーグ)や薬剤耐性エピゾーム(渡辺力)で実証されているにもかかわらず、核酸が遺伝子の実体とは証明されていないと主張する人(宇佐美正一郎)や獲得性質遺伝の例を薬剤耐性の獲得で説明しようとした人々(佐藤七郎、徳田御稔ら)、環境変化がDNAにも及ぶという人(鎮目恭夫)もいました。

1950年代の終わりには、ルイセンコに同情的だった人からも批判や反省が出てきました。やみくもの機械論批判(鎮目)、近代技術や手法への懐疑的傾向(伊藤)、科学行政の失敗(中村)、政治と科学の混同(佐藤)など。問題を生物学上の場からはなれたところで解決すべきでないとずっと主張したルイセンコ派(八杉竜一、松浦一)もいました。この本は、科学思想史白書という形を取っています。ルイセンコ派を糾弾することなく、中立で冷静です。三十年前に書かれた本とはいえ、読み応えのあるものでした。