学生時代の恋人が自殺する瞬間迄弾いていたバッハのカノン。そのテープを手にした夜から、音楽教師・瑞穂の周りで奇怪な事件がくり返し起こり、日常生活が軋み始める。失われた二十年の歳月を超えて託された彼の死のメッセージとは?幻の旋律は瑞穂を何処へ導くのか。「音」が紡ぎ出す異色ホラー長篇。「BOOK」データベースより
40歳という折り返し地点になると、今まで生きてきた40年と、これから生きていくであろう40年をどう擦り合せるかという戸惑いを、誰でも感じるのではないでしょうか。80年近い寿命があると、40歳が不惑の年とはいえないようです。篠田さんもこれを書いたのがそんな年齢だったはず。主人公の瑞穂、その学生時代の恋人/友人であった康臣と正寛、その三人の人生にとっての転換点は、康臣の死によってもたらされます。
一人は折り返し地点で力尽きてしまいました。一人は今まで演じてきた人生を、最後まで演じきるべく、これまでの行程を遡行します。そしてもう一人は、捨てたはずの昔日の夢を取り戻すべく、死者の音楽に導かれるように時間遡行し、往路とは別の道をたどる決意をするのです。
録音されたテープにまつわる話は、鈴木光司の「リング」のようですが、ホラーの要素は重要ではなく、ざらついた違和感が主人公の心情を表しているようです。逆回しのテープ、バッハのカノン、ゲーデルの不完全性定理などは、D.R.ホフスタッターの「ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環」を想起させますが、ミステリー要素も重要ではなく、謎めいた魅力的なイメージを与えるだけです。しかし、篠田節子さんは非常に筆力があるので、ちょっとした場面に現実感があります。二声のカノンが鳴り響く場面で終わるあたり、爽やかでさえあります。