壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

ヴァイオリン

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ヴァイオリン マルク・パンシェルル 
大久保和郎訳 クセジュ文庫 白水社 1967年

プルーストの話からセザール・フランクのヴァイオリン・ソナタに行き着き、曲を聴いたとき、クセジュ文庫の中にこの曲に言及していた本があったのを思い出しました。「失われた時*」にあるように、過去(の記憶)というのは、品物の中に潜んでいるものですね。なんて、まだ読みかけですが、やっと安心して引用してみました。孫引きはなんとなく後ろめたいものです。

本棚にあったので、再読しました。チボー(ティボー)の弾くフランクのソナタをレコードで繰り返し聞いたのはこの本の訳者で、前書きにありました。この本はかなり専門的なヴァイオリン史で、ヴァイオリンという楽器は16世紀にほぼ今の完成された形になっているわけですから、バッハ以前の音楽史がたくさん出てきて、ぜんぜんわかりません。でも18世紀になるまで、ヴァイオリンは上品な楽器ではないという認識があったそうで、意外でした。速読すると、本文にも一言だけ、チボーがフランク、フォーレなどに長けていたとありました。原著は20世紀半ばにかかれたものでしょうから当たり前ですが、弦楽界におけるアジアの動向には、一切触れられていません。

読んでいるうちに、連想したのが別の本だったことに気付きました。調べてみたところ、クセジュ文庫ではなくて、白水Uブックスのジャック・ティボー著の「ヴァイオリンは語る」のようです。記憶はぜんぜん曖昧で、いくらきっかけがあっても、メモリーが壊れかけているのではダメです、再読なのに何にも覚えていないし。でもジャック・チボーからいくら連想しても、「チボー家の人々」は絶対読みなおしませんから。「失われた時*」で充分です。

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今日は、昨日の真夏日と打って変わって、まさに春の日でした。いつも見える山と海がすっかりかすんでいました。黄砂のようです。黄砂にかすむ名古屋のビル街の写真がニュースにありました。冬の終わり、ソウルの、あの透明な空をもう見ることはないという場面でかすんでいたビル街も、やはり黄砂のせいだったのでしょうね。