壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

神は妄想である

イメージ 1

神は妄想である -宗教との決別 リチャード・ドーキンス
The God Delusion  Richard Dawkins
垂水雄二訳 早川書房 2007年 2625円

 

人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか? なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか? 「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば現在のアメリカ社会のあり方は、おかしくはないのか……『利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に携わっているドーキンスはかねてから宗教への違和感を公言していたが、本書ではついにまる1冊を費やしてこのテーマに取り組んだ。彼は科学者の立場からあくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い批判を加えていく。宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。神の存在という「仮説」を粉砕するために……古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインに代表される、非合理をよしとする風潮が根強い今、あえて反迷信、反・非合理主義の立場を貫き通すドーキンスの、畳みかけるような舌鋒が冴える。発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。(早川書房のコピー)


本当は神の存在を疑っているのに、いろいろな状況からカミングアウトできない人たちの後押しをする目的で書かれたということなので、表面的には冷静な言葉を使う努力がなされていますが、ある種の宗教的な事柄に対する著者の嫌悪感は隠しようもありません。議論の切り口は鋭く、面白いエピソードが多く、最後まで飽きる事はありませんでした。神学的または哲学的な難しい宗教論争はほとんどないので、分かりやすいし、訳文もかなり読みやすいと思います。

日本で暮らしている日本人にとって、カルト的な宗教は別にして、宗教の存在を強く感じさせる出来事はほとんどありません。この本にあるドーキンスの主張は至極まともな事という印象でしかありません。でも政治や社会や日常が強く宗教色を帯びた場所では、宗教とそれ以外のもののどこで線を引くかは、差し迫った問題なのでしょう。片方の側から見たものではありますが、特に現在のアメリカの宗教に関連した状況がどんなものなのか、うかがい知る事が出来たのが大きな収穫でした。ブッシュの人気が低迷したとはいえ、宗教保守の力はますます増大しそうです。




~~~~以下は備忘録。~~~~

 

第1章では、アインシュタインたちが言う汎神論的な「神」と、一神教の超自然的な「神」は全く異なるのだという前提を強調し、有神論、理神論、汎神論、無神論を定義している。そして現在、宗教に過剰なまでの敬意が払われていることに異議を唱えている。宗教という理由で何でも許されるのはおかしいという。(宗教ということで幻覚剤成分を含むお茶の使用が認められたりするそうだ。)

 

第2章の「神がいるという仮説」では、“宇宙と人間を含めてその内部にあるものすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説”が神仮説であると定義している。そしてその仮説の検証は、科学の対象になりうるものだというのがドーキンスの主張。(そうすると後は、科学の方法論の問題になるわけで、擬似科学に対処するときのものと変わりがない。信仰を持たない者にとっては当たり前に聞こえることばかりだが、霊的なもの、超自然的なものが存在するかというようなレベルの話であれば、どこの社会でもあてはまることかもしれない。)

 

仏教や儒教は宗教というより倫理体系であるとして、この本では議論の対象にしていない。グールドのような、科学と宗教はまったく別のものだからお互いに立ち入らないという考えは甘いという。

 

第3章では神の存在を支持する論証(主にキリスト教の神が存在するという論証)が、実体のないものであると論破し、第4章では、神の存在が実証的には反証できなくても、存在するという蓋然性はきわめて低いものだとのべ、創造論インテリジェントデザインにに対する反論が展開されている。「ダーウィンのブラックボックス」のマイケル・ベーエについても言及。

 

第5章「宗教の起源」では、すべての文化が宗教を持つことについて、ダーウィン主義の立場から考察している。宗教にあるプラシーボ効果のような直接的な利点は小さく、宗教というのは何か別なものの副産物かもしれない。つまり蛾がろうそくに飛び込んでしまうように、別の有利なものに付随してくるものか。神を信じ執着する事は、年長者の言うことを信じることが子供の生存を助けるとか、恋愛といったものの副産物なのかも知れない。ミーム淘汰によって宗教の進化を説明している。(カーゴカルトはフォレ族だけのものだと思っていた。ニューギニアばかりでなくもっと広く分布していたとは知らなかった。)
 
第6章「道徳の根源―なぜ私たちは善良なのか?」で、おそらく宗教に先行したであろう道徳の起源もダーウィン主義の立場から考察している。初期の人類集団における血縁利他行動、互恵的利他行動などから発生した道徳感覚が、集団の大きくなった現在も副産物として働いている。宗教は絶対論的な善悪の基準を供給する。

 

第7章 旧約も新約も聖書の来歴と内容を見れば、道徳の規範になりえないことは明白。道徳に関する時代精神は常に変化しているのに、聖書をそのまま信じる原理主義は柔軟さが全くない。第8章では、そういった宗教のどこが悪いのか?なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?というドーキンスの主張をとことん書いている。(ここで挙げられている多数の事例に唖然とするばかり)

 

第9章「子供の虐待と、宗教からの逃走」では、例えば子供たちを自爆テロの凶器にするのは過激主義ばかりでなく、中庸といわれる宗教にも責任があるという。無批判に価値を受け入れることが問題なわけで、子供がもっとも被害者になりやすい。たった一つの価値観しか持たせないのは精神的虐待である。子供には何かを教えるのでなく、どう考えるのかを教えるべき。信仰がなくても聖書の教養を持つことは可能。(ウッドハウスジーヴァスシリーズは聖書の言い回しのもじりに満ちているらしい。)

 

第10章「大いに必要とされる断絶?」。宗教は、説明、訓戒、慰め。霊感(インスピレーション)の四つを満たすという役割を持つとされてきたが、説明は科学が受け持ち(4章)、訓戒(道徳上の指針)は宗教がなくてもいい(6,7章)と論じた。宗教は死の床にあるものに本当に慰めをもたらすのだろうか。科学こそ、我々が生来もつ生の知覚を超えて宇宙を見渡すことのできる霊感をもたらすものである。(これについては疑いなく共感する。)

 

図書館の予約が詰まっているので、せっせと読んだのに、一週間かかりました。小説が読みたい。