壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

移民たち

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移民たち 四つの長い物語  W・G・ゼーバルト
鈴木仁子訳 白水社 ゼーバルト・コレクション 2005年 2200円

「土星の輪」と比べると、ずっと読みやすい作品でした。これを先に読んでいたら、ドキュメンタリーのように思ってしまったかもしれません。しかし、「土星の輪」と同じように、どこまでが事実なのか、どこからが虚構なのか、提示された写真は本当なのか、語り手である「私」は一貫してゼーバルト自身なのか、考えれば考えるほど分からなくなってしまうのです。

新天地を求めた移民たちではなく、歴史に翻弄されて故郷を離れざるを得なかった人たち、長く異国に暮した後も自分の居場所をついに見つけられず、自死またはそれに近い形でこの世を去った人たちの、四つの物語です。

リトアニア出身のユダヤ人ドクター・ヘンリー・セルウィンは、「私」がノリッジ近郊で借りた部屋の家主だった。パウル・べライダーは「私」の小学校時代の教師で、四分の三アーリア人だった。「私」の大叔父アンブロース・アーデルヴァルトは、世界各地を回った後、アメリカでソロモン家の執事をしていた。「私」がマンチェスターで出会った画家のマックス・アウラッハの来歴を知ったのは、何年も絶ったあとだった。マックスは1941年十五歳でドイツから一人イギリスに逃れ、出国の遅れた両親とは二度と会うことがなかった。

人々の消えかけた記憶を探り、残された記録の跡をたどりながら、これらの人々の過去を探しに旅をする「私」もまた、ドイツで生まれたのち、異郷で長く暮しているのです。四人の「私」のすべてがゼーバルト自身だとは言い切れないし、ゼーバルト自身は、よく知りませんが、たぶんユダヤ系ではないでしょう。

最後のインタビューを読むと、16、7歳のころに、1945年以前に何があったかを事実上初めて知ったとあります。過去の負の遺産とどう向き合うのかという重いテーマを抱えてしまったのでしょう。記憶は時として美化され、都合の良い形に変形してしまうことも承知で、だからこそゼーバルトは、人々の記憶を掘り起こして語らなければならないのでしょう。

マックス・アウラッハの母親の書き残したものをたどる旅に出かけるにあたって、「私」は、『いま自分が目の当たりにしているドイツ人の精神の貧困化と記憶喪失、万事をきれいさっぱり水に流してしまう手際のよさに、しだいに自分の頭と神経がさいなまれつつあることを、一日一日つよく感じるようになっていた。』のです。

事実なのか虚構なのかに関わらず、真実というものがそこにあるのかもしれません。ゼーバルトの筆は、事実と虚構の両方を書くことのできる両親媒性を持っています。それは界面活性剤のように、静かに我々読者の記憶に滲みこんでいく不思議な力があるのです。