第一章 第一次ポエニ戦役(紀元前264年~前241年)
シラクサ侵攻のためメッシーナからの救援要請を受けたローマは、シチリアに派兵した。これを脅威と感じたカルタゴ軍はシチリアに上陸しポエニ戦争が始まった。海軍を持たなかったローマが、船を建造し「カラス」という新兵器で敵の船に乗り込み、得意の白兵戦でカルタゴに勝利した。ローマはシチリアを手に入れた。
シラクサ侵攻のためメッシーナからの救援要請を受けたローマは、シチリアに派兵した。これを脅威と感じたカルタゴ軍はシチリアに上陸しポエニ戦争が始まった。海軍を持たなかったローマが、船を建造し「カラス」という新兵器で敵の船に乗り込み、得意の白兵戦でカルタゴに勝利した。ローマはシチリアを手に入れた。
第二章 第一次ポエニ戦役後(紀元前241年~前219年)
ローマはさらに、カルタゴの植民地であったサルデーニャ、コルシカを傘下にして西地中海の制海権を得た。カルタゴの少年ハンニバルは父と共にスペインに渡った。ローマの異民族統治政策について、ローマ軍の構成などの詳しい説明がある。区別はするが差別はしない開放的で柔軟な政策、マニュアル化された軍団の様子は面白い。
ローマはさらに、カルタゴの植民地であったサルデーニャ、コルシカを傘下にして西地中海の制海権を得た。カルタゴの少年ハンニバルは父と共にスペインに渡った。ローマの異民族統治政策について、ローマ軍の構成などの詳しい説明がある。区別はするが差別はしない開放的で柔軟な政策、マニュアル化された軍団の様子は面白い。
第三章 第二次ポエニ戦役前期(紀元前219年~前216年)
26歳になったハンニバルはスペインでの全権を握り、イタリア本土に攻め込む。ハンニバルはピレネー山脈を越えてガリアに入り、ローヌを渡河して、象を連れてアルプスを越えてイタリアに侵入した。象のアルプス越えってここの場面だったのね!ティチーノ戦でヌミディア騎兵に悩まされ、トレッビア戦でハンニバルの包囲戦法にローマ軍は完敗した。ハンニバルはローマに直接攻め入らず、同盟国の切り崩しにかかった。トラジメーノ、カンネでローマは惨敗し、カンパーニャ地方のカプアはローマから離反した。ハンニバルはマケドニアのアレクサンダーに学んだが、もっと巧妙な戦略を駆使した稀代の戦略家。
26歳になったハンニバルはスペインでの全権を握り、イタリア本土に攻め込む。ハンニバルはピレネー山脈を越えてガリアに入り、ローヌを渡河して、象を連れてアルプスを越えてイタリアに侵入した。象のアルプス越えってここの場面だったのね!ティチーノ戦でヌミディア騎兵に悩まされ、トレッビア戦でハンニバルの包囲戦法にローマ軍は完敗した。ハンニバルはローマに直接攻め入らず、同盟国の切り崩しにかかった。トラジメーノ、カンネでローマは惨敗し、カンパーニャ地方のカプアはローマから離反した。ハンニバルはマケドニアのアレクサンダーに学んだが、もっと巧妙な戦略を駆使した稀代の戦略家。
第四章 第二次ポエニ戦役中期(紀元前215年~前211年)
ハンニバルとマケドニアとの同盟、カルタゴに寝返ったシラクサなど、ローマの苦境は続いたが、ローマ国内に国論の分裂はなく、同盟国の離反も少なかった。ローマは外交政策によってマケドニアを封じ込めた。ハンニバルはターラント港を手に入れ、カラーブリア地方も制覇した。シラクサ攻略でローマ軍が悩まされたのが、アルキメデス考案の投石器。数学の問題に夢中になってローマ兵に殺されたのはこの場面だったのね!ローマは会戦でハンニバルと正面切って戦わず、持久戦法に切り替えた。ハンニバルは、ローマに近づき城壁の周りを散策までしたが一指もふれなかった。カプアを取り戻したローマはハンニバルをカラーブリア地方に追いつめたが、スペイン戦線が危うくなった。
ハンニバルとマケドニアとの同盟、カルタゴに寝返ったシラクサなど、ローマの苦境は続いたが、ローマ国内に国論の分裂はなく、同盟国の離反も少なかった。ローマは外交政策によってマケドニアを封じ込めた。ハンニバルはターラント港を手に入れ、カラーブリア地方も制覇した。シラクサ攻略でローマ軍が悩まされたのが、アルキメデス考案の投石器。数学の問題に夢中になってローマ兵に殺されたのはこの場面だったのね!ローマは会戦でハンニバルと正面切って戦わず、持久戦法に切り替えた。ハンニバルは、ローマに近づき城壁の周りを散策までしたが一指もふれなかった。カプアを取り戻したローマはハンニバルをカラーブリア地方に追いつめたが、スペイン戦線が危うくなった。
第五章 第二次ポエニ戦役後期(紀元前210年~前206年)
スペインの総司令官に志願した24歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオは、父と叔父をスペイン戦線で失っていた。知将スキピオは周到な情報収集と戦略によってカタルヘーナを陥落させ、寛大な戦後処理を行なった。さらにスペイン内陸部でカルタゴ軍と対戦し、ハンニバルに学んだ包囲戦によって勝利した。ハンニバルはカラーブリア地方でローマの執拗な追撃になんとか耐えていた。
スペインの総司令官に志願した24歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオは、父と叔父をスペイン戦線で失っていた。知将スキピオは周到な情報収集と戦略によってカタルヘーナを陥落させ、寛大な戦後処理を行なった。さらにスペイン内陸部でカルタゴ軍と対戦し、ハンニバルに学んだ包囲戦によって勝利した。ハンニバルはカラーブリア地方でローマの執拗な追撃になんとか耐えていた。
第六章 第二次ポエニ戦役終期(紀元前205年~前201年)
ハンニバルをイタリアから誘い出すため、アフリカに侵攻したスキピオは、のちに親友となったヌミディアのマシニッサの協力を得てカルタゴ軍を破った。スキピオの講和の申し出に、カルタゴ国内の意見はまとまらず、帰国命令を受けたハンニバルとスキピオは講和のための会談まで行なったが、ザマで最終決戦が行なわれた。象隊をうまくかわしたローマ軍は敵前で陣形を建て直し包囲戦に持ち込んで勝利した。スキピオの出した講和条件は対戦以前のものと大きくは変わらなかった。厳しい条件ではあったが、正義が非正義に対してくだす、こらしめではなかった。
ハンニバルをイタリアから誘い出すため、アフリカに侵攻したスキピオは、のちに親友となったヌミディアのマシニッサの協力を得てカルタゴ軍を破った。スキピオの講和の申し出に、カルタゴ国内の意見はまとまらず、帰国命令を受けたハンニバルとスキピオは講和のための会談まで行なったが、ザマで最終決戦が行なわれた。象隊をうまくかわしたローマ軍は敵前で陣形を建て直し包囲戦に持ち込んで勝利した。スキピオの出した講和条件は対戦以前のものと大きくは変わらなかった。厳しい条件ではあったが、正義が非正義に対してくだす、こらしめではなかった。
第七章 ポエニ戦役その後(紀元前200年~前183年)
ヘレニズム世界(ギリシャの都市国家やマケドニア、ハンニバルの逃れた先のシリア)の紛争に巻き込まれたローマは、シリアと対決する事になった。敗者のシリアに対しても、勝者のローマの要求は過酷というほどではなかった。筆者曰く「穏やかな帝国主義」。地中海世界の覇権はローマのものであり、ローマというパトローネスと同盟国というクリエンテスの関係を成り立たせていたのが信義(フイデス)であった。しかし、スキピオは反対派カトーによって失脚させられた。
ヘレニズム世界(ギリシャの都市国家やマケドニア、ハンニバルの逃れた先のシリア)の紛争に巻き込まれたローマは、シリアと対決する事になった。敗者のシリアに対しても、勝者のローマの要求は過酷というほどではなかった。筆者曰く「穏やかな帝国主義」。地中海世界の覇権はローマのものであり、ローマというパトローネスと同盟国というクリエンテスの関係を成り立たせていたのが信義(フイデス)であった。しかし、スキピオは反対派カトーによって失脚させられた。
第八章 マケドニア滅亡(紀元前179年~前167年)
マケドニアの次期の王はローマ嫌いのペルセウスは、ローマに反旗を翻し、故スキピオの戦法を身に着けていたローマ軍はマケドニアをなんなくくだした後も、マケドニア人の自治は尊重していた。
マケドニアの次期の王はローマ嫌いのペルセウスは、ローマに反旗を翻し、故スキピオの戦法を身に着けていたローマ軍はマケドニアをなんなくくだした後も、マケドニア人の自治は尊重していた。