壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

小説のストラテジー

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小説のストラテジー 佐藤亜紀
青土社 2006年 1900円

図書館の蔵書になかったのでリクエストを出してみました。図書館で購入するのかと思ったら、県下の遠い公立図書館からのお取り寄せ(相互貸借)でした。他に読む人もいないだろうし、購入に値しないという事でしょう。図書館に買って!というより、自分で買えばいいのでしょうが、買わないのでメモっておきます。とても面白かったけれど、文学の基礎知識が皆無で、簡潔に要約できるほど理解できませんでした。

1 快楽の装置—創作と享受における一般的な前提: 芸術とは五感を使って享受する快楽の装置であり、受動的に安易に消費するだけの、主義主張を読み取るだけの悪しき教養主義の姿勢は排除すべきである。作品が知覚に与える刺激を鋭敏に感じ、刺激の組織化に努力した上で、自分が立たされている歴史的・社会的文脈を賭けて判断の勝負に出ることが重要である。さまざまな歴史的・社会的条件の根底にはもっと普遍的なものが確実に存在するはずだ。
・・・同感です、読むのに値するものはそれなりに対峙しているつもりですが、まずは読んでみないと分からないものもあります・・・

2 フィクションの「運動」—読み手が反応するのは物語ではなく記述である: フィクションの表面をなすのは記述の運動(記述が対象を語り、状況とその変遷を語ることで動いていくこと)である。苦難の浄化(パトスのカタルシス)は物語からでなく、記述の運動からくる。
・・・確かにね、泣かせるテクニックにはひっかからないように気をつけているのですが、年とともにセキュリティーが甘くなってしまいました。このごろはわざと防犯スイッチをOFFにすることもあるし・・・

3 ジャック・ワージングの困惑—物語にはどのような役割があるのか: 物語なしで記述を展開できるのなら無しでもいい。意図的に物語性を排除することで成立する記述もあるが、また物語らしい物語においてこそ可能になる記述もある。つまり記述を生み出すためには物語が必要である。
・・・なるほど、よくある筋書きだけれどこの作家はうまいよね、みたいなことかな・・・

4 楽興の時—作者が全てをコントロールできるとは限らない: 物語と記述は、実際には分かちがたく絡み合い、相互に干渉することで作品を形成する。記述は物語から語るべき要素を汲み上げ、物語はその記述によって、画一的な既存の型の組み合わせからなる物語の類型から外れて、その作品に固有の姿をとらせる。物語の類型から逃れないような型抜きの大量生産の作品は、ティッシュやトイレットペーパーのようなもの。
・・・わかりますが、まあ、こういった類の紙でないと拭けない物もあるかと思います・・・

5 燭台なしの蝋燭—言葉は本当に通じるか/通じなければならないか: 単純な辞書的規定を超えて、言葉の置かれている状況の文脈において、言葉は理解されるべきものである。さらに言葉の意味の輪郭には揺らぎや滲みがあって、書き手と読み手の言語体系のずれこそが、読んだ作品を再編して新しいものを作り上げ、読み手自身の言語を変質させるという、享受の創造性を生み出すものである。
・・・強く同感。これこそ本読みの醍醐味・・・

6 かくて詩人は追放される—小説は哲学上の真を語らない: 小説の言語と哲学の言語は徹底的に異なる。プラトンの求めるような唯一不動の「真」に、フィクションは重きを置いていない。事物の多義性と人間の多面性、卑しい人間による卑しき浮世、望ましくない事柄こそが、フィクションには最適の土壌である。
・・・だから小説は面白い・・・

7 誰も一人では語り得ない—複数の語り、複数の声: 真を求め単声で語る近代文学(書くことで何かプラトン的な真を教える事が出来ると錯覚した書き手と、読むことで何かプラトン的な真を学べると錯覚した読み手の野合で形成された)の求心的な力の表現であるところの規範的な傑作の数々も、本来語りが持つポリフォニーな遠心的な力によって、多様な声の一つに取り込まれて絶対的な優位を失った。読み手の声を作品に加えて、さらに多声化がおきる。
・・・近代文学とは何を指すのか定義は知らないが、書き手が要求するであろう文脈の通りに読んで楽しむことも、自分の文脈で読むことも、わざと文脈から外れて作品を読んで面白がるということも読み手の自由だと思っているのですが、佐藤亜紀の作品から何かプラトン的な真を学べるかというとむずかしい・・・

8 ディエーゲーシス/ミメーシス—声の様態に関するタクティカルな考察: ディエーゲーシス/ミメーシス(英語ならtelling/showing)語り(陳述)と描写はそれぞれ、永遠性の直観と現実の感覚的認識、平面的な非人間性と立体的な人間性であり、フィクションの記述においては、必要に応じて前景と背景が交替する。またこの二つは、読み手が感じる時間の速度が、速い/遅いということから、使い分けできる。
・・・このへんからは書き手のための指南になっているみたいです。佐藤亜紀氏本人の作品を思い出すとその使い分けに納得。自作を使って解説してくれたらうれしいのに・・・

9 単声による肖像—作例一。ユルスナールハドリアヌス帝の回想』
・・・読んだばかりの本で、さすがに内容は記憶していました。回想録とは何かという解説が面白かった。日本の中間管理職が読む信長秀吉家康小説(この表現には笑いました)はヨーロッパ文化圏では伝記に相当し、ビジネスエリートがよむ戦記ものや一般歴史書が回想録に当たるそうです。回想録とはあらまほしき自分の物語つまり一人称で書かれたフィクションです。「ハドリアヌス」のあの美しい様式美が、両大戦の間の解体された世界を体験した中で成立していったことが重要であるとの指摘には納得。いくらアナクロとはいえその価値は揺るがないというのもその通りです。美しい調べに乗ってその世界に没頭する楽しみ方のできる本ですから・・・

10 殺人者のファンシー・プローズ—作例二。ナボコフ『ロリータ』
・・・すごく昔に読んだので、記憶がかなり曖昧ですが、この屈折した小説を理解できなかったと思います。回想録という単声の語りにくらべ、告白もしくは懺悔という形は、過去と現在の自己認識が一貫していないという多声の語りだそうです。ナボコフはこの作品を読んだだけなのですが、別の作品を読むチャンスがあるかしら・・・

11国民作家の悲劇—作例三。笙野頼子『水晶内制度』
・・・まったく読んだ事がないのでなんともいえません。名前すら知らなかったので、読んでみようかな・・・

12作品が全て、人間は無—結びに代えて
・・・Schadenfreude(他人の不幸を喜ぶ)という癖があるといってナボコフを評した評論家エドマンド・ウイルソンの評論行為を例にとって、評論を「西瓜割り」に喩えた非常に面白い議論です。西瓜という標的に一打で命中する可能性もあれば、外し方にも良し悪しがあって、見物人は囃し立てる事が出来るというのです。ナボコフウイルソンの間の絶対に越えられない部分は、アメリカ人であるウイルソンが世界の不気味な(unheimlich)姿をそのままにしてはおかない、解決への文脈に収めずにいられないドラマトゥルギーにあるといいます。ナボコフが語りたがらない個人的な体験は彼に世界の不気味さを見せ、解決の糸口のないその不気味な様相の中では人間が人間でなくなったのだろうと推測され、そこから精神がズタズタになるような笑い、ウイルソンがSchadenfreudeと指摘するものが出て来ざるを得なかったのだといいます。しかし作家の個人的経緯から出て来るものや時代の記憶は必ず作品の中に含まれていて、読み手によって作品からから読み取られるのを待っているそうです。そういわれるとやっぱりナボコフを読もうかな・・・