はじめは読みやすい文章ではありませんでしたが、晦渋ということではなく、重厚で凝縮された表現が続き、説明的でない部分があるために、じっくりと読む必要がありました。たくさんの人名や地名にもだんだんに慣れ、そしていつの間にか、ハドリアヌスという人間の魅力にひきつけられていました。たった300ページでしたが、長編を読んだような心地よい疲労感でした。
20年の治世のうち大半をローマ辺境地の旅に費やしたハドリアヌスは、晩年ローマ郊外のヴィラで死の床につきながら、後継者であるマルクス・アウレリウスへの書簡の形で自らの生涯を語ります。すぐれた行政官、勇敢な軍人であったハドリアヌスは、皇帝としてどのようにローマを統治していくか、彼自身の夢を語り続けます。しかし同時にローマの滅亡を予見し避けようのない現実を見据えています。
ローマ属州を旅しながら、自ら信ずる平和政策を実務的に実行する冷静さと、多種多様な文化を受け入れていく柔軟さを持っていました。ピテュニア生まれの美しいアンティノウスを愛で、彼がナイルに身を投じた後は悲嘆にくれて周りの人々を狼狽させるほどでした。
ユルスナールの文章はどこもかしこも引用したいほどの名文です(訳文もいいのでしょうが)。例えばドナウの岸辺で大空に続く雪の平原を見渡す場面、シリアの砂漠で何一つさえぎる事のない星空を仰ぎ見る場面では、壮大な景色が文章から立ち上がってきます。
ハドリアヌスの悔恨はユダヤ人の反乱に対する厳格な処置だったのかもしれません。自分を襲った奴隷に対してさえ、その哀れな身の上に心を寄せ従者にするくらいでしたから。でも、他の宗教の存在を断固として認めないユダヤに、共存の道をとらせることはできませんでした。
巻頭の、皇帝アエリウス・ハドリアヌスの五行詩「さまよえる いとおしき魂よ・・・」は、ハドリアヌス が、そしてユルスナールが、人生の果てに自分を見つめ、死を受容したときの静謐さを表す一文になっていますが、最後にこの文章にたどり着いた時とても感動したので、引用したくなりました。
「小さな魂、さまよえるいとおしき魂よ、汝が客なりしわが肉体の伴侶よ、汝はいま、青ざめ、硬く、露わなるあの場所、昔日の戯れをあきらめねばならぬあの場所へ降り行こうとする。いましばし、共にながめよう。この親しい岸辺を、もはや二度とふたたび見ることのない事物を・・・・・目をみひらいたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう・・・・・」