虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか リチャード・ドーキンス
Unweaving The Rainbow Science, Delusion and the Appetite for Wonder 1998
福岡伸一訳 早川書房 2001年 2200円
Unweaving The Rainbow Science, Delusion and the Appetite for Wonder 1998
福岡伸一訳 早川書房 2001年 2200円
ニュートンがプリズムで分光した虹に対し、ジョン・キーツが「レイミア」の中で嘆いた同じ話が、「光と視覚の科学」にもありました。キーツを読んだことは、たぶん一度もありません。25歳で夭逝したイギリスの詩人で、これだけでも詩的です。近々映画になりそうです。Project Gutenbergで見ると「レイミア」はかなりの長編詩です。読む気は全くないのですが、
Philosophy will clip an Angel's wings,・・・Unweave a rainbow,・・・(学問は天使の翼を切り落とし、・・虹を解体する・・ )と、この部分です。これは話のきっかけでしかなく、あまりこだわらない事にします(もう充分にこだわりましたか)。
Philosophy will clip an Angel's wings,・・・Unweave a rainbow,・・・(学問は天使の翼を切り落とし、・・虹を解体する・・ )と、この部分です。これは話のきっかけでしかなく、あまりこだわらない事にします(もう充分にこだわりましたか)。
ドーキンスは、「科学は天使の翼を切り落としたりはしない。本当の科学は、むしろその翼を広げて、Sense of Wonder(科学に対する畏敬の念)を喚起し、詩的なものを失うことはないのだ」と説き続けます。と同時に、例によって例のごとく、「似非科学」「疑似科学」に対し容赦なく切りつけます。例えばコールリッジ(これもイギリスの詩人)がニュートンの虹に言及している的外れな議論に対し、「コールリッジは早く生まれすぎたポストモダニストだったのだろう」と、返す刀でポストモダンもばっさりやっています。
Xファイルも、スカリーよりもモルダーが優勢になってどんどんオカルト風に話が進んでいくのが気に入らない?らしいのですが、これには賛成。
科学が明らかにした事実がどんなに詩的であるかを、3つのバーコード(光の線スペクトル、音波と言語、DNA)を使って、数々の引用をしながら説明していきます。でもドーキンスはいつも刀を手に持っているので、言葉がlyricalには響かないのです。
なぜ人は似非科学を信じやすいのでしょうか。子ども時代は、信頼する大人の言うことはなんでも信じる傾向にあるけれど、大人になるには健全な疑いも身につけなければならない。科学に基づいた建設的な懐疑を持つ必要があるといいます。
この言葉で、ちょっと時間遡行。小学1-2年生のころ、学校の宗教講話の時間に「太陽も月も神様がおつくりになった」と習って、幼い私は、修道女の先生の話を信じていたのです。ところが「理科なぜだろうなぜかしら」という本(知りたがりの子どもだったので親が与えたらしい)に、天体の成因説がいくつか紹介されていました。このときはショックでした。本を信じ、先生がウソをついたと思ったのです。宗教なんて言葉を知りませんでしたから。どうして本の方を信じたのかわかりませんが、たぶん成因について、いくつかの可能性が併記してあったからだと思います。そのあとどうしたかというと、1番反抗して無神論者になった。2番いい子になってクリスチャンになった。3番がんばって天文学を勉強したのどれでしょうって、三択はキム次長のようにはうまく作れません。その後、転校したのでその事はすっかり忘れてしまいました。
宗教は別のことですが、なぜ人は似非科学を信じやすいのかというと、本当は高い確率で起きる偶然のことが、きちんと確率計算しないために、ありえないことがおきたように感じてだまされてしまうというのです。本来偶然にすぎないのになにか関係があるように見える事象の集合(PETWHAC: Population of Events That Would Have Appeared Coincidental)を考えよ!とドーキンスは主張します。同じ誕生日、念ずると時計が止まる。これはみなペトワックです。
アメリカの心理学者スキナーの実験による鳩の迷信行動も、神にいけにえを捧げて雨を待つ農夫の行動も、偽陽性の誤謬(間違った肯定)を犯していて、その偽陽性の誤謬と偽陰性の誤謬(間違った否定)の間の中間を舵取りしながら進んでいかなければならないというのです。人間の直感は偽陽性の誤謬を犯しやすい(例えば亡くなった知人が夢枕に立つ)のは、人類が非常に長い間小集団で暮らし偶然の一致に驚く閾値が低いため、現在のような大集団の中で範囲の広い多量の情報を得る状況に慣れていないためだそうです。直感的な統計学を司る脳の部位が、いまだに石器時代のままだといいます。そして「科学が難しいのは、常識の拡張では捕らえられない非直感的な部分が多いためだ」という発生学者ルイス・ウォルバート(「不自然な自然科学」1992年)の主張を紹介しています(この本邦訳無い)。
第8章では、ホメオパシーも占星術もフェミニズムも複雑系も、S.J.グールドもズタズタ。グールドのようなすばらしい文章家が、ワンダフルライフや断続平衡説のような間違った理論を説明する事の弊害を挙げています。
教師もしくは指導者を類型化するのに、縦軸に教える技術が上手か下手か、横軸に教える事が正しいか間違いかという分け方をすると、この4つのタイプのうち最悪なのは、間違った事を上手に教えるタイプだという話を聞いたことがあります。グールドはまさにこのタイプだというのがドーキンスの主張でしょうか。ちなみに4つのタイプのうちベストなのは、正しい事を上手に教えるのでなくて、正しい事を下手に教えるタイプだとも聞きましたが、どうでしょう。ドーキンスはこのタイプ?
この本が出た(1998年)あと、2002年にS.J.グールドは亡くなってしまいました。「ワンダフルライフ」は全部を通して読んでいないけれど、ざっと見ただけでとても魅力的な本ですものね。それに匹敵するのは、ドーキンスの新刊「祖先の物語」だと思います。
たしかにドーキンスのいうように、自然淘汰の真の単位は遺伝子でも、私たちが眺めて楽しいのは、この地球上に生を受けた個体としての生物の姿であり、知りたいのはそれらの生物の驚くべき習性と行動であるのはたしかです。でもそのことと利己的な遺伝子の振る舞いとが矛盾するわけではありません。ガイアなんていう言葉を持ち出さなければ、個体ひいては生態系が利己的な遺伝子のアナーキーな(しかし協力的な)同盟であるというようなメタファーによるイメージを持ち出す必要もないわけです。
第11章では、「感覚器官が外部からの物理的な刺激を受け取り、それを解きほぐし(unweave)情報を抽出し、私たちの脳は、この世界についての内的なモデルを、使い物になるようにすべく再構成(reweave)する」という表現が使われています。視覚系に関する話ですので、前に読んだグレゴリーの「脳と視覚」が引用されていましたが、邦訳は同じ頃なので「眼と脳」という題名になってました。
第12章では、脳の進化が、コンピューターのハードウエアとソフトウエアの共進化というアナロジーで語られています。グラフィック・ユーザー・インターフェイス(GUI)というソフトとマウスというハードが、パソコンに自己増殖的スパイラルによる爆発的な進化をもたらしたが、人間の脳にGUIがあるなら、それは言語だろうといいます。そして言語とともに共進化した発声器官も、狩猟における道具使いも、そして「ミーム」も。ドーキンスにとってミームは詩的らしい。
ドーキンスを読むと、すっきりする部分もあるが、戦闘的であることにいささか疲れます。ドーキンスも(グールドも別のやり方で)似非科学に対してこれほどまでに戦闘的なのは、われわれ日本とは文化的背景が違うためとは思うのですが、日本の現状は本当のところどうなのでしょうか。先日下記の記事をYahooニュースで見つけました。どこの国も似たり寄ったりでしょうね。
4月22日15時1分配信 時事通信 モスクワ「太陽は地球の周りを回っている」-。ロシアで国民の約3割がこう信じていることが明らかになり、関係者の間に衝撃が広がっている。有力紙イズベスチヤがこのほど、全ロシア世論調査研究所から入手した調査結果として伝えた。 調査はロシアの153都市で、1600人を対象に基本的な科学知識を試す形で行われた。 この結果、天動説を信じている人は28%に上った。ほかに「放射能に汚染された牛乳は煮沸すれば飲んでも安全」との回答が14%、「人類は恐竜時代に既に出現していた」との回答が30%に上った。 また、科学的な知識だけを信じる人は20%しかおらず、あとは魔法を含む何らかの超自然的な力の存在を信じていることも明らかになった。