壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

翻訳の秘密 翻訳小説を「書く」ために 小川高義

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翻訳の秘密 翻訳小説を「書く」ために 小川高義
研究社 2009年1700円

ラヒリの一連の翻訳で名高い小川高義さんの著書(既発表の文章が多い)。研究社から出ている横書きの本だけれど、翻訳のハウツーものではありません。翻訳の秘密を語る上で最低限の英語原文があがっています。翻訳というのはまず文法に基づいて考え、イメージや気分を膨らませて頭の中の映像を書き直すような作業が望ましいそうです。

最近読んだばかりのポオの「ウイリアムウイルソン」の、大正、昭和前半、昭和後半の三つの訳が引用され詳しく分析されていました。主人公が自分と瓜二つの男を剣で刺す最後の場面で、決闘を行った部屋の掛け金が内から掛けられていたのか、または外から掛けられていたのかという些細な部分が問題にされています。でも指摘されればたしかに重要な点で、文章を読んだ時に頭の中に立ち上ってくるイメージは、小川さんの新訳によって格段に明確になっています。

先行の翻訳者をおとしめるという意味ではなくて、翻訳の技術の進歩ととらえるというのが著者のスタンスです。ポオの作品は日本で言えば江戸時代(天保年間)に書かれたものですので、古い時代の英英辞書がネットで容易に参照できるという現代の環境も大いに役に立っているとのこと。

最も面白かった章は、アメリカ産の花柳小説「さゆり」の翻訳についてでした。米国人男性が書いた日本の花柳界へのエキゾチシズムを、日本の読者に違和感なく伝えるためにはどうしたらよいのか、さまざまな工夫が紹介されていました。京都の舞妓や芸妓の言葉使いはもちろんのこと、lotus leafに包んだ握り飯を食べる場面では、「ハスの葉」と翻訳すれば日本の読者の不必要な疑問を喚起するので「竹の皮」にしたとか、壁のsoft orange hueは「紅殻色」だと思いついたなどなど、細部にまで気を配ったそうです。

原作にあまりに忠実だと違和感があるけれど、日本の実状を優先しすぎると原作の雰囲気を壊すということで、匙加減が難しいのだというのです。原著は聖典ではなくて楽譜であり、どのように演奏するのかが翻訳者の仕事だそうです。この小説は一度読んでみたくなりました(さゆり アーサー・ゴールデン 文藝春秋 1999年)。

その他にも読みたくなった著者の訳本:
ボンベイの不思議なアパート /ロヒントン・ミストリー 文芸春秋 1991年
○ かくも長き旅 ロヒントン・ミストリー 文芸春秋 1996年
○ 骨 フェイ・ミエン・イン 文芸春秋 1997年
○ 灰の庭 デニス・ボック 河出書房新社 2003年
○ 調律師の恋 ダニエル・メイスン 角川書店 2003年