壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

ガーデニングに心満つる日 マイケル・ポーラン

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ガーデニングに心満つる日 マイケル・ポーラン
小林勇次訳 主婦の友社 1998年 2800円

「欲望の植物誌」の著者によるエッセー。かつて牧場だった土地を手に入れて、七年間、ほぼ自力で庭を造った経験から書かれた本です。庭でスコップを振るいながら、苗の植え方から文明論にまで思索を広げています。哲学的ですらあるのに、分りやすい文章でユーモアたっぷりにアメリカのガーデニングの現状が語られています。

例えば、第三章の「なぜ芝を刈るのか」。アメリカの典型的な郊外住宅。その前庭の継ぎ目無く広がる芝生は、我々日本人の想像をはるかに超えます。まさにカリフォルニアからニューヨークまで、気候や地形に関係なく均一に広がる芝生が何を意味するのか、初めて納得がいきました。ガーデンという言葉はイギリスとアメリカでは表すものが違うそうなんです。

園芸家が化学肥料ではなく堆肥を使うのは一種の道徳的美徳であるとか(第四章:堆肥と道徳)、オールド・ローズとハイブリッド・ティーの階級差とか(第五章:薔薇園のなかへ)、自分の庭に木を植えることは何を象徴しているのかとか(第九章:植樹)楽しませていただきました。訳文では植物名(和名)がカタカナでなくて漢字で表記されていましたが、これも面白かったです。

アメリカ人は自然と文明を対立するものとみなす根深い習性を持っているため、自然か文明かという二者択一的な発想に陥ってしまうことが多いそうです。たいていは自然の方を選ぶ(例えばヘンリー・ソローのように)けれど、本当のところはそれでは解決しないような問題が多く、妥協点は、原野や森林の中でなく、庭園のなかにこそあるのだというのが著者の主張です。

第六章の「雑草は私たち」で、ガーデニングを初めたばかりのころ、雑草は自然そのものであるというエコロジー的発想から栽培植物とのロマンティックな共存を夢見ていたけれど、二度目の夏には方向転換視したといいます。雑草は栽培植物と同様に人間の手が入った土地にしか生えないし、だいたいが入植したヨーロッパ人が持ち込んだものだったというわけです。



ところで、我が家の猫の額ほどの庭は、ススキの生えた空き地につながっていて、薄(ススキ)、八重葎(ヤエムグラ)、蓬(ヨモギ)、藪枯らしが間断なく侵入してきます。雑草との戦いは諦めて、今ではプランター園芸です。これこそ、狭い日本での正しい園芸の方法ではないでしょうか(笑)。

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