17世紀の中ごろ、フランクフルトに、印刷工房の娘として生まれたマリア・シビラ・メーリアン(Maria Sibylla Merian)は1699年に52歳で新世界に渡りました。アムステルダムではすでに名の通った画家だったのに、財産を処分して娘とともに大西洋を渡る危険な航海に出たのです。少女の頃からイモムシや毛虫を飼い変態の研究をしていたメーリアンは、熱帯のジャングルに棲む多種多様な虫たちの生態を明らかにするために当時オランダの植民地だったスリナムで研究を続け、後に 『スリナム産昆虫変態図譜』を著しました。
17世紀後半の自然科学という学問分野さえなかった時代にあって、昆虫という定義もはっきりしていませんでした。リンネ以前で博物学は切手収集と変わらず、当時の植民地から入ってきた珍奇な動植物は高値で売買される状態でした。当然のことながら植物画や動物画も、科学や芸術というより装飾画として捉えられていました。女性(特に未婚の女性)は職業の自由がなく学問もままならない時代に、メーリアンは昆虫の生物としての側面(生活史や生態)を研究した先駆者でした。
彼女の波乱に富んだ人生もさることながら、当時の社会的・文化的背景が詳しく解説されていてとても興味深かった。(彼女の才能を育んだ印刷業という家業、科学としてはとらえられなかった生物学の状況、生命の自然発生説と顕微鏡技術の発展、オランダ黄金期末期のアムステルダム、スリナム行きのきっかけとなったラバディスト共同体での生活など)。さらに、メーリアン亡き後、彼女の業績は学問の主流から顧みられず、多くの原画がサンクトペテルブルグの地下に眠ることになったのか、そして20世紀も最後になってどのように再評価がはじまったのか。
彼女の波乱に富んだ人生もさることながら、当時の社会的・文化的背景が詳しく解説されていてとても興味深かった。(彼女の才能を育んだ印刷業という家業、科学としてはとらえられなかった生物学の状況、生命の自然発生説と顕微鏡技術の発展、オランダ黄金期末期のアムステルダム、スリナム行きのきっかけとなったラバディスト共同体での生活など)。さらに、メーリアン亡き後、彼女の業績は学問の主流から顧みられず、多くの原画がサンクトペテルブルグの地下に眠ることになったのか、そして20世紀も最後になってどのように再評価がはじまったのか。
そして最も面白いのがもちろんマリア・シビラ・メーリアンの絵画です。銅版画や彩色画をもっと見たい!国会図書館のディジタル貴重書で見せてくれないかしら。イモムシ毛虫の嫌いな方は要注意ですが (私だってすごく愛しているわけではないのです。)、 「Maria Sibylla Merian」で画像検索してみてください。