壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

生ける屍 ピーター・ディキンスン

イメージ 1

生ける屍 ピーター・ディキンスン
神鳥統夫訳 サンリオSF文庫 1981年 420円

「キングとジョーカー」よりもっと入手しにくいのが「生ける屍」だと聞いて読みたくなり、図書館で借りました。アマゾンで数万円の値段がついていること以上に驚いたのは、ピーター・ディキンスンが80歳の今も現役だということです。公式HP(私はてっきり故人だと思い込んでいました、すみません)。

直訳風の文章で読むのに時間がかかりましたが、なかなか面白い話でした。奇抜なシチュエーション、思索的な題材、キッチリとしたミステリの解決、人間に対する鋭い観察眼など。こういうのがディキンスンらしさというのでしょうか。以下にあらすじを載せましたが、復刊の可能性もあるのでネタバレにご注意ください。
イメージ 2

製薬会社の実験薬理学者であるデビッド・フォックスは、カリブ海にある小さな研究所に派遣されました。真面目で有能なフォックスに任されたのは、ネズミを使ってGN117という物質の薬効を検証する仕事です。厳密な条件下でネズミに迷路を走らせて学習能力の変化を観察する単調な仕事でしたが、彼は自分の仕事に誇りと喜びを持っていました。しかし彼の元を去ったリサアンナは、彼のことを「生ける屍」だと言いました。仕事以外のことは何一つ考えようとしない空虚な人だというのです。

研究所のある島はトロッターという独裁者の支配下にある元英国植民地でした。フォックスはある日、実験室の掃除婦の死体を発見し殺人の容疑をかけられます。逮捕監禁との交換条件として、独裁者が望む人体実験をすることになってしまいました。フォックスが、軽い鎮静作用があるSG19をネズミに与えると過密状態でおこる殺し合いを防ぐ効果があるという話をしたことがありました。独裁者はその物質に人間の徳性を高める薬効があると主張し、囚人を使ってテストするように指示してきました。

不本意ながらも我が身可愛さから人体実験を承諾したフォックス。後ろめたさのために囚人たちと共に洞窟の牢獄で暮らします。しかし実験という仕事に対しては真摯であり、何とか結果を出そうと努力はするのですが、狂気の独裁者が望むものは被験者である政治犯たちをもっと過酷な条件に置くことのようでした。とうとうフォックスは、緻密な計算によって監視兵たちを出し抜き、囚人たちに連れられるようにして牢獄から脱出し、ジャングルに逃げ込みます。文明社会に帰ることをあきらめた彼は現地の女と暮らし始めましたが、ある日独裁者の老母と秘密警察がフォックスを訪ねてきます。

クーデターが起こり、独裁者の支配が終わり革命政府が樹立したことを聞かされ、革命政府の正当性を証拠立てるための記者会見をさせられるのですが、フォックスは虚偽の証言のしっぽをつかまれないように当たり障りなく会見をこなしました。掃除婦が殺された事件の真犯人と動機についても、フォックスは見事に推理し、別れた恋人にどうやって連絡を取ろうかと思案します。
イメージ 2

独裁者一族の狂気、先進国の経済援助を望む政府や秘密警察、それに対する反対勢力と精霊信仰をもつ民衆、製薬会社の思惑という複雑な情勢の中で、フォックスが考えるのは自分の仕事と自分自身のことだけ。身勝手な男というのともちょっとちがい、明確な自分の意志を持つことなく、しかし有能に仕事をこなす、自分の半径50mくらいしか見えていない男は、こんな事件の後でもちっとも成長しないのです。

革命が起こったと聞いても、ペットであるネズミの死が最大の関心事であるフォックス。背中に「Q」のマークのあるクエンティンという名まえのネズミがフォックスと事件の間中ずっと行動を共にしていたのですが、さらに死骸をあっけなく投げ捨てます。フォックスの心情は一切書かかれていないところがなんともフシギな感じです。
科学者として有能で科学的真理には忠実であっても、社会的責任というものを認識しない科学者の姿に重なるところがあるように思います。