壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

終わりの街の終わり ケヴィン ブロックマイヤー

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終わりの街の終わり ケヴィン ブロックマイヤー
金子ゆき子訳 ランダムハウス講談社 2008年 2400円

 アフリカにある多くの社会では、人間を三種類に分類している――地上でまだ生きている人間とサーシャとザマニに。死んだばかりの人たちは、地上の人々と時間がまだ重なり合っていで、生きる死者サーシャと呼ばれる。彼らは完全には死んでいない。というのも、生きている者たちの記憶の中にいまだ生きていて、生きている者たちが彼らを思い出し、芸術作品の中に彼らの姿をつくりだし、逸話の中に彼らを生き返らせるからだ。先祖を知る最後の人間が死んだとき、その先祖はサーシャから死者、ザマニになる。一般的な先祖としてザマニは忘れられはしないが、畏敬される。多くは……名前で思い出される。しかし、彼らは生きる死者ではない。そこには違いがあるのだ。    ジェームズ・W・ローウェン
(以下ネタバレしてます)
物語の前にこんな引用があるので、街におだやかに暮らす人々は死者であり、幸運にも思い出してくれる者がまだ生きているらしいことがわかります。しかし、この街の人口は日に日に増えました。街にやってきたばかりの人々は、致死性のウイルス病のパンデミックで絶滅寸前の世界について語りました。

さらに時が経つと、この街から大勢の人が、ふっと姿を消すようになりました。思い出す生者すらいなくなったのでしょうか。

一方、南極の基地に一人取り残されたローラ・バードは、救援を呼びかけようと必死に努力するのですが、通信は繫がるのに誰一人呼びかけに答えてくれません。彼女は橇で雪原に迷い込むことになってしまいました。

街にはローラの知己しかいないようです。そして街全体が縮みはじめました。

世界がどんな風に終わっていくのか、死者たちはもう苦しむことはあまりないし、ローラの苦しみも最後に浄化され、穏やかな諦念に満ちた最後でした。


題名にも読み初めにも結構興味をそそられたのですが、え~っと、それだけです。もちろん工夫されたエピソードはいろいろあるのですが、あまり印象に残らなくて、寓意もはっきりしません。不条理というわけでもないし、アイデアや雰囲気は悪くないのですが、それだけでは満足できません。短編だったものを長編に書き換えたのだそうで、きっと良いところが薄められてしまったのでしょう。短編のほうは、O・ヘンリー賞を受賞して映画化が決定しているとか、長編も映像的には綺麗かもしれません。今のところ、ランダムハウス講談社とは相性が悪いみたい。