壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎

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眠れない一族 食人の痕跡と殺人タンパクの謎 ダニエル・T・マックス
柴田裕之訳 紀伊國屋書店 2007年 2400円

 

1765年に奇妙な病気で亡くなったヴェネツィアの医師の家系には、中年以降に発病する致死性の不眠症がある。数世紀に渡って一族を悩ましてきたが、同時に家族の中でさえ語られなかった病気だった。しかし、イギリスで発生したBSEや、パプアニューギニアカニバリズムに端を発するクールー病と、奇妙な共通性を持つことがわかってくる。

 

一癖も二癖もある研究者たちがその秘密を追いかけ、ついにたどりついたのは、ノーベル賞と感染性のタンパク質という常識を覆すような事実。今でもその事実には、いくつかの謎が忍び込む。「食人の痕跡と殺人タンパクの謎」という邦訳の副題が全くそぐわないほどに、筆者の冷静で客観的な筆致にはセンセーショナルな色合いがない。しかし、スリリングな展開と驚くべき内容につい興奮を覚える。

 

北米に広がるスクレイピー由来の鹿のCWDはコントロールできるのだろうか。そしてまだ治療法のない、プリオン病という全く新しい概念の病気の研究は、アルツハイマーやその他一連の中枢神経変性症の解明につながるのだろうか。致死性の病気を持つ人々が現存するなかで、深いところで病気と向き合いそれを受容するという姿がなにげなく描かれていて、好ましい、素晴らしいノンフィクションだ。
      
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全頭検査って今でも続けているの?と思うようにBSEの脅威が去った日本で、非常に珍しい遺伝病であるプリオン病は、我々には全く関係がないと思うかもしれない。しかしプリオン病に似た、アルツハイマーなどの中枢神経変性症は、人間の高度な脳機能の進化と長寿化に付きまとう影なのだと、常々思う。プリオン病を始めとする一連の中枢神経変性症は、高度な脳機能の進化とその結果(科学技術の発展)である長寿化のトレードオフとして考えられないだろうか。

 

脳の機能を極限にまで進化させてきた人間は、思考と記憶を維持するため、中枢神経細胞を更新するのが難しい。分裂によってできた新しい細胞のシナプスを繋ぎ直すのが困難だからである。そのため加齢とともに神経細胞にはゴミのような物質が必然的に蓄積する。もちろん細胞にゴミ処理システムは備わっているが、中にはプリオンタンパクのように分解しにくいゴミもある。多くの突起をもつ神経細胞は表面積がとても大きくて、凝集しやすい膜タンパクを多く含んでいるからかもしれない。

 

老齢になればいつの間にかそんなゴミが溜まって、神経細胞はだんだんに機能しなくなる。そうなる前に他の病気で寿命が尽きた時代には、中枢神経の機能低下は顕かにはならなかった。しかし現代の長寿命の元では、脳以外の身体の構造が保たれたにしても、例えば200歳にでもなれば誰でも、特別な病気でなくとも、脳細胞はゴミに占拠されてしまうのではなかろうか。
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表紙はピエトロ・ロンギの絵画(1752年):奇妙な病気で亡くなったヴェネツィアの医師も仮面舞踏会で、このようなペスト医の仮装をしていたかもしれないという。

 

クールーについては『震える山』というのが面白かった。フォレ族で見つかった潜伏期の非常に長いクールーは、プリオンの多型によるものだろうが、vCJDではどうなるのか、日本人としては気になる。