壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

晩年のスタイル

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晩年のスタイル エドワード・W・サイード
大橋洋一訳 岩波書店 2007年 2200円

イードの「オリエンタリズム」については、これまでに読んだ本の中で何度も引用されていましたので、図書館の新刊コーナーに並んでいた本書を読もうと、気軽に借りてきました。表紙に大江健三郎さんの「本を読む喜びと生きていく希望を呼びおこす。」という言葉がありましたが、とんでもない、本を読む苦しみ^^の方が大きかった。

作家や音楽家やその他の芸術家たちの「晩年の作品」「晩年のスタイル」は2003年に亡くなったサイードのまさに晩年の関心事であったそうですが、生きているうちには出版に至らなかった遺作というべきエッセーです。

ここでいう「晩年性lateness」というのは、年とともに成熟し円熟味を増すというようなことではなく、晩年になって円熟に背を向け,狷介固陋に時代精神に反逆し、和解を求めず抵抗する姿勢を持ち続けることを意味するそうです。こうした抵抗のスタイルを持つ芸術家の晩年とその作品の論評です。

訳者あとがきより――たとえ時代の最先端を走っていると自負している人物でも、あるいは時代とともにあることを実感している人物でも、人生のある時期から、自分が時代とずれている、時代に取り残されている、時代についていけないと不安にかられはじめる。「時代に遅刻している」-そこから時代に追いつこう、さらには再び時代に先頭に立とうとする人もいれば、逆に時代とのズレや〈時代への遅刻感〉を契機に、時代に逆らおうとする人もいるだろう。本書の主役たちは、そのような晩年の反逆者たちである。“late style”とは、だから「抵抗のスタイル」でもある。死を前にした人間が、時代とのズレを意識しつつ、時代に抵抗しつづけること、円満な和解と完成と達成に逆らいつづけること、これが「レイト・スタイル」である。・・中略・・本書はあくまでも文化論・芸術論の範疇に属する文献であり、人生観なり世界観が語られるような軽薄な本では決してない。・・中略・・にもかかわらず、いや、だからこそというべきか、本書にはわたしたちに生きる力を与えてくれるようなところがある。本書の暗黙のメッセージのひとつは、「晩年を生きよ」であろう。・・・

 

以下覚え書きですが、的外れだと思いますので、不用なら切り取って捨ててください。

……………………………… 切り取り線 ………………………………………

第1章 時宜を得ていることと遅延していること
ベートーベンの後期の作品-最後の5つのピアノソナタなど-が円熟とはほど遠く、散漫で極端に無頓着な構造をもち、晩年の作品はカタストロフィーだというドイツの哲学者アドルノを引用している。時代錯誤的な「晩年のスタイル」に存在する内的緊張が、そのあとに続くものに大きな影響を与えているのだという。(後期のピアノソナタは、前は取りとめのないという印象だったが、今はハンマークラヴィーア結構好きですケド、晩年だからヵ)。

第2章 18世紀への回帰
リヒャルト・シュトラウスの晩年の作品は、18世紀への回帰の傾向が一層顕著で、調性にこだわり続けることで、時代精神に反抗した。(シュトラウスはたくさん聞いたような気がしていましたが、リヒャルト*はほとんど知らないことに思い当たりました。)

第3章 限界にたつ『コシ・ファン・トゥッテ
第4章 ジャン・ジュネについて
第5章 消えやらぬ古き秩序
(ここでは、それぞれモーツアルトジャン・ジュネヴィスコンティについて論じているけれど、論じられている作品を見たことや読んだ事がないので、残念ながらパス。)

第6章 知識人としてのヴィルトゥオーソ
グレン・グールドに関する論評ですが、サイードさんはグールドを高く評価していて(ほとんど絶賛という感じ)、もっとも面白い章でした。「グールドのバッハ演奏は、徹底的に―しばしば反発を招く―特異な主観性」をもっていて、彼の奇矯とも言える演奏スタイルは一種の反抗ともいえるのだそうです。
(1955年に演奏されたグールドのゴールドベルグ変奏曲パブリックドメインになっているので、例えばBlue Sky Label♪お世話になっています♪で聴けます。グールドさん、キャラも音も立っている!)

第7章 晩年のスタイル瞥見
トーマス・マンヴェニスに死す」とそれをオペラにしたブリテンなどなど。ヴェニスはこのオペラの晩年性を引き立たせる場所であった。