年に数回、京浜東北線で通り過ぎる王子駅は、飛鳥山の緑が目の前にあって、新幹線も首都高もすぐそこを走っているのに、なぜか周りに見える景色は未だに昭和のものです。通り過ぎるたびに、いつかこの駅で降りて、あの長い跨線橋を渡り、飛鳥山公園を抜けて都電に乗ろうと、漠然と考えていました。ですから「いつか王子駅で」という題名をみつけたとき、躊躇なく手に取りました。
背中に立派な昇り龍を彫った印章彫りの職人正吉さんは、手土産らしきカステラの箱を居酒屋に置き忘れたまま、何日も帰ってきません。時間講師や翻訳を身過ぎ世過ぎとしている「私」は、正吉さんのことが気になって、カステラを持ってウロウロしています。居酒屋「かおり」の女将は美味しい珈琲をいれてくれるし、大家の米倉さんのところの中学生の娘咲ちゃんには、家賃値引きを条件に不定期の家庭教師をしています。
古書店の店主筧さんは、売り物の本にパラフィン紙を掛けることが何故か生きがいみたいで、購入した古書の代金を待ってくれます。近所のリサイクルショップで三千円で購入した変速ギアつきの自転車で、いつも乗る都電の電車道に沿って大塚駅前まで出かけるのですが、あとで店主に「そんな自転車であんまり遠くへ行かないほうがいいよ」と言われてしまいます。そんな、何の変哲もない日々に「私」は、近所の知り合い相手に、昭和の名馬が活躍した競馬を語り、古書と文学を語ります。
幼いころ「チンチン電車」と呼び、山手線内を縦横無尽に走っていた都電は、わたしが都心の学校の生徒だったころに少しずつ都バスの路線に置き換わりました。大学の学生だったころには自分のことだけにかまけていて、いつの間にか王子駅を通るこの系統を唯一残して、都電が消えたのさえほとんど意識にありませんでした。ですから今でも都電を見るたびに、届かない過去を感じてしまうのです。
でも、この作品に感じる懐かしさは、時間の中に消えていく事物にだけでなく、人との付き合いの中にあるようです。周囲にいる人間にたいしていつも「のりしろ」になれるような余白が、「私」に最も欠落しているのだなどと気づくのです。「他者のために、仲間のために、そして自分自身のために余白を取っておく気づかいと辛抱強さが「私」にはない」と。最後に「私」が荒川遊園地の観覧車に乗る場面では、温かな気持ちになりました。