壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

匂いの帝王 天才科学者ルカ・トゥリンが挑む嗅覚の謎

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匂いの帝王 天才科学者ルカ・トゥリンが挑む嗅覚の謎 チャンドラー・バール
The Emperor of Scent: A Story of Perfume, Obsession, and the Last Mystery of the Senses  
Chandler  Burr
金子 浩訳 2003年 2300円 早川書房

「オルファクトグラム」からの匂いつながりで読みました。単なる備忘録ですから、「読んだ」という一言で簡単に済ませて逃げ出そうと思いましたが、こういうビミョーな種類の本をどう扱うのか、メモというか、読書感想文を書いておきます。新刊ではないし、一応の決着がついた問題を、いまさらごちゃごちゃいうのは、ちょっと卑怯な気もしますが。

内容(「BOOK」データベースより)最先端の科学をもってしても、いまだ解明されない匂いのメカニズム。この超難解な謎にとりくんだ一人の天才科学者がいた。彼の名はルカ・トゥリン―。グレープフルーツと熱い馬、汗まみれのマンゴー、真っ黒なゴムの花、スクランブルエッグにガソリン―若くして香水に魅せられたトゥリンは、どんなに複雑な香りでも即座に特徴をとらえ言葉に置きかえる。香水業界の化学者からも一目置かれるその特異な才能のおかげで、秘密主義の香水企業の研究室にも自由に出入りしはじめたトゥリンは、クリスチャン・ディオールカルヴァン・クライン、ジヴァンシーなどの、大企業の内幕を覗きみるようになる。やがて、並外れた知性と能力をもとに、嗅覚のしくみを解く新理論を編み出すが…いま、世界じゅうに注目されている天才科学者の半生を追った衝撃のノンフィクション。

という紹介文なので、この本はノンフィクションである事を前提として読みました。まず、トゥリンの特異な才能と香料業界の話は、裏話だという点も含めて非常に面白かった。しかし、アメリカのジャーナリストが書いたサイエンス系ノンフィクションには、すべてではないが特徴があって、読んでいて違和感をもつことが多いのです。時系列に書かないとか、書き手の視点が長く定まらず行ったりきたりすることが原因で、本酔いを起こしそうになります。また、専門的な事柄を説明するのに、あまりに身近なものに喩えるため、かえって分かりにくくなってしまいます。そして、ライター自身の誤解があって、この本では、嗅覚と免疫系を比較しているところで、抗体産生の仕組を誤解しているようです。また遺伝子の存在とその発現を混同しています。著者の得意分野ではないようです。

そして、この本でもっとも大きいのが、匂いの一次受容の形状説(立体構造説)と振動説のうち、片方に偏っていることです。ただ、このことは著者自身も充分自覚していて、「著者によるなかがき」が途中にあり、その中で形状説側からの取材を一切拒否されたためだと説明していました。またトゥリンと友人関係にあり、本の内容を彼がコントロールしたがったため、途中から一定の距離を置く様になったそうです。訳者によるあとがきの中のインタビューでは、トゥリンの振動説を信じ、彼がノーベル賞を獲得するかもしれないと言っています。

トゥリンが振動説を証明しようと孤軍奮闘する話、トゥリンの振動説がいかに香料業界から拒絶され、学会から無視され、科学雑誌ネイチャーから拒否されたかという話も、裏話として面白かった。裏話というのは、覗き見という意味もあるが、一方的な話であることも意味します。トゥリンのいうように、分子軌道法により物質の赤外スペクトルの振動数を計算し匂いを予測できたら、時間と経費の節約になり莫大な利益につながるから、香料業界は興味をもつでしょうが、一次受容のメカニズム自身にはあまり関心を示さないでしょう。学会または科学界は、構造機能相関にも興味はあるでしょうが、匂い物質の一次受容のメカニズムが、物質の立体構造によらずトゥリンの主張するように分子振動とトンネル効果によるものなら、全く新しいタイプの受容体とシグナル伝達系を想定しなければならないということで、臆病になるのでしょう。

トゥリンの特異な個性や人柄も関係があるでしょうが、嗅覚分野の多くの専門家は「もしトゥリンの振動説が常温核融合のような擬似科学だったら、そのお仲間にはなりたくない。」と警戒したし、「もし本当だったらノーベル賞級?だから表立って否定する事は避けたい」と微かに思ったかもしれない、というわけで嗅覚分野の多くの専門家は無視することを選んだかもしれません。トゥリンの論文を皆一様に読んでないと主張するのは、たしかに怪しいです。利害関係のない他分野の人たちは、この論争を面白がっている(揶揄するという意味ばかりではなく、興味深く見ている)ようです。

イメージ 2この本で繰り返し強調されていた、「赤外スペクトルの振動数と匂いに相関がある」という事実は、トゥリンの振動説のみを支持するものではなく、立体構造説(形状説というより分かりやすい)の証拠でもあるはずです。赤外スペクトルの振動数は主に物質の部分構造を表していて、嗅覚受容体が認識するのは少なくともその部分構造だと考えられるからです。35年以上前に書かれた、E・アムーア「匂い-その分子構造」では、匂い分子全体が挟み込まれるような立体構造説モデルが考えられていました。(E・アムーアもこの「匂いの帝王」にでてくるのですが、アムーアがトゥリンの振動説を聞かされたときの反応が、読みようによっては非常に感銘を受けたとも取られる曖昧な記述になっていたのは、怪しいです。)

光学異性体の匂いが違うという事実ですら、どちらか一方のみの証拠にはなりえないでしょう。なぜなら、単なる非特異的吸着ではなく、匂い物質が受容体とある程度の親和性によって一時的に複合体を形成しなければ、それに続くどんな生命現象も、特異性を欠いてしまうからです。ただ匂い分子の多くは疎水性なので、比較的特異性の緩い疎水結合なのかもしれませんが。トゥリンの「重水素置換した化合物は匂いが違う」「炭素数が奇数と偶数ではにおいが違う」という主張は、彼自身によっては統計的に実証されていないようです。

この本が出たあと、トゥリンにとってもそしてバールにとっても、残念なことに、2004年のノーベル医学生理学賞は、リチャード・アクセルとリンダ・バックの嗅覚受容体をコードする遺伝子の研究に授与されました。かれらが1991年に発見した嗅覚受容体遺伝子群(げっ歯類で1000種)が、その後の研究で匂い分子を受容するタンパク質をコードしている事がはっきりしたためです。さらに、ネイチャーNeuroscience誌 (2004)では、トゥリンの主張を検証して「NO」という答えをだしています。一般人は重水素置換した化合物などの匂いを区別できない事が、二重盲検法などで証明されています。ただ「嗅覚の訓練や経験によって区別できるようになる事は否定しない」と、いっています。おそるべしトゥリンの鼻?

この本が出て評判になったことで、科学の陰謀と書かれて黙っていられないと、ネイチャーがやっと相手にしたということなのでしょうか。ノーベル賞以降、嗅覚受容体の研究は急速に進み、トゥリンの旗色はますます悪くなるようですが、全面的に否定されたわけではありません。未だ発見されていない嗅覚受容体もないとはいえません。オープンな議論こそ、科学を進歩させるのです。

香水に興味があれば、この本は別の面白さをもっています。資生堂の「ノンブル・ノワール」という香水は、トゥリンに言わせれば五本の指に入るような世界の名香だったそうです(今は生産中止)。香りも名前も聞いたことのない香水がたくさんでてきます。トゥリンは通りすがりの人の、香水の名と成分を呟き、新しい香水を提案して調香師たちを魅了するのです。たしかにルカ・トゥリンの香りに対する能力は並外れたものがあるようで、本当に香るような表現をします。そして、たいていは悪臭ですが、私がにおいを知っている化学物質もたくさん出てきます。さらに、この本はかすかに『と』の匂いもします。

イメージ 3一次受容が立体構造か分子振動かはもちろん重要ですが、どちらかにかかわらず、匂いの認識において最も重要なのは脳における情報処理の問題である事はたしかです。錯視ならぬ錯臭、幻聴ならぬ幻臭 というような現象があるのでしょうか?ついでなので、ごく最近の研究をまとめた本「匂いと香りの科学」朝倉書店もちょっと見ました。この本は、この分野はというべきかもしれませんが、すごく面白い。匂い物質のアンタゴニズムもあるらしく、新しい消臭剤が開発されるかもしれません。そうするとお金の匂いもしてきますね。ああやだやだ。
いやいや、嗅覚生物学の分野はたくさんのセンスオブワンダーに満ちあふれています。脳における情報処理の問題だけでなく、遺伝子発現制御の問題、発生における神経ネットワーク形成の問題、フェロモン、MHC、行動科学、性選択、進化とどこまでも広がっていくようです。

軽く読もうと思っていた本なのに、またのめりこんで、時間がかかってしまいました。何かもっと別の面白い本はないかしら。