壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

光と視覚の科学

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光と視覚の科学 アーサー・ザイエンス 
Catching the Light Entwined Histroy of Light and Mind Arthur Zajonc
林 大訳 白揚社 1997年 3500円

「脳と視覚」がとても面白かったので、続いて読む本を探していました。「神話・哲学・芸術と現代科学の融合」という副題を見て、はじめこの本は神秘主義トンデモ本だと思って手に取ったのですが、とんでもない、まともな本のようです。ユニークな表現方法が叙情的ですらあります。かすかに神秘の香を漂わせながら、全体が光と視覚をめぐる思想史になっていますので、まともに読みました。

「絡み合う二つの光-自然の光と精神の光」は、世界が自分の姿をpresent(提示)する光と、私たちが世界をrepresent(表象)する光です。太陽がもたらす光(可視光)が網膜で像を形成するが、それを認識する眼差しの光(脳における情報処理)がなければ、視覚(知覚)は形成されません。この二つの光の関係性を求めて、人間が模索してきた歴史をたどっていきます。

エンペドクレスからプラトンまでギリシャ思想では、目はカンテラであり、自ら光を放っていました。アレキサンドリア大図書館キリスト教徒によって破壊されたのち文化の中心であった10世紀のアラブで、アルハーゼンは外部の物理的な光線とピンホールカメラの理論を発見していたのです。私たちの目は、神聖な光を宿す明るいカンテラではなく、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)になってしまいました。目の火をともしなおしたのは20世紀の感覚生理学でしたが、知覚と脳、意識の問題は簡単なモデル(科学における一種の偶像崇拝とザイエンスはいいますが)で済ますわけにはいかないようです。

光はかつて神の視覚でした。太陽神ラーの眼差し、ゾロアスターの火、そして旧約聖書で「光あれ」と。さらに宗教的視点から科学的視点へのパラダイムシフトは、新たな光の二面性(粒子と波)を引き寄せました。ファラデーとマックスエルにより光は電磁波となり、練習用の補助輪であったエーテルアインシュタインによって、宇宙の隅々から取り除かれたようにみえます。

「虹の扉」で描かれる、世界中の神話や文学に現れる虹の話もすばらしく、古事記天の浮橋」も出てきました。ニュートンによって虹の秘密が解かれたのちに、俊敏で美しい虹の女神イーリスが天から失われたことを、キーツと共に嘆く者もいました。ニュートン以降に、ゲーテが闇の中から色を作り出そうとも、シュタイナーが霊的な光を持ち出そうとも、ザイエンスは世界には神話も必要なのだといいます。ザイエンスの専門である量子力学も相対論もリリカルに語られます。そして、現代の量子論をもってしても、光の不思議を完全に解くことができないのだそうです。

将来、私たちはどのように光を見るのでしょうか。「光をみるというのは、見えないものを見えるものの中に見るということのメタファー、私たちの惑星とあらゆる存在を一つにまとめ上げている脆い衣を看破するということのメタファーである。ひとたび私たちが光を見ることを学べば、他のことはすべて自ずとついてくるにちがいない。」というのが、ザイエンスの結びの言葉です。

久しぶりに、一冊の本を真面目に読んだので、とても読み疲れました。でも、ついでだから、ドーキンスの「虹の解体」も、ニュートンによる虹の話のようですので、引き続きよみます。ザイエンスとドーキンスでは、表現が正反対でしょうね。ドーキンスの明快な論旨がなぜかなつかしい。