壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

七つの夜

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七つの夜 ホルヘ ルイス ボルヘス
野谷 文昭 訳 みすず書房 1997年 2400円

神曲・悪夢・千一夜物語・仏教・詩について・カバラ・盲目について。七編の連続講演の記録です。

ボルヘス特有の難解な言葉はなく、ゆっくりと自分自身の思考体系を語っていきます。ボルヘスはこの講演の時には既に光を失っていますが、書物の内容を引用する時には、彼自身の頭の中にある書庫から一冊の本を取り出し、そっとページを開いて朗読するのです。

本の内容に関する記憶には、私の場合は、テキストとしての文字情報以外に、本の表紙(背表紙も)やある特定のページの視覚情報があります。「あの記述は左ページの右下のあたりにあった」と思い出すことがあります。でも私には、その視覚情報から文字情報を取り出す事はできません。

博覧強記の人ボルヘスは、PDF文書を見るように、記憶の視覚情報から文字列を抜き出す事ができるかのようです。ボルヘスの案内でダンテの「神曲」を読みたくなりました。昔、地獄の門より先を読めませんでしたから。ボルヘスの「神曲講義」という本があるのです。

夢に関する記述は気に入ってしまったので、抜き書きします。「夢を見る人間はこのすべてを(個人的永遠性を)、神がその広大無辺な永遠から宇宙の変転の一切を見るがごとく、一目で見てしまいます。・・私たちは連続的な生活に慣れ親しんでいるので、自分の夢に叙述的形式を与えようとするのです。・・私たちが夢について調べられるのは、その記憶だけ、その哀れな記憶だけなのです。」(悪夢より) 

ボルヘスの神の概念はどこにあるのでしょうか。「私がキリスト教徒であるか否かは、定かでない」と言います。仏教特に禅宗に造詣が深いようで、仏教は、唯一神の存在の軽信を要求する他の宗教と異なり、ブッダの存在は重要でないというような解説をしています。

18世紀の初頭に千一夜物語が初めて西洋の言葉に翻訳されてから、幾度となく翻訳が繰り返され、原語版に存在しない物語が付け加えられたそうです。それが「アラジンと魔法のランプ」。あまりに魅力的で、自身で書いてみたくなったのか、最初に翻訳された時に、付け加えられた物語のようです。

原語版千一夜も、最初から一つの物語であったわけではなく、インドやイスラム各地に起源があります。
“「千一夜物語」はまだ死んではいない、今もなお成長し続ける物語である”とボルヘスは言います。千一夜物語に触発されて、以降たくさんの物語が生まれました。

文学の世界に限らず、優れた作品は多くの人々の心を動かし、原作へのオマージュとして新たな作品が生み出されます。最近、「冬のソナタ」に関する創作という分野を知りました。日本に韓流ブームをもたらしたこの作品が、心を惹きつけてやまない作品であることに、今頃になって、気付きました。

「詩について」という章では、聖書が無数の意味を内包することから、孔雀の玉虫色の尾羽に例えられたといいます。読者の数だけの聖書があり、再読に値するいかなる書物についても同様で、そこから感じ取れる美学的要素は、人それぞれ、また同一人であっても時期それぞれに変化するものなのです。

ボルヘスはまた、詩から感じ取られる美学的事実は、定義不可能で、私たちの感情よりも強度において確実に劣る他の言語で薄めなければならないのか、と言います。美とは体全体で感じる何かであり、判断の結果ではない。ボルヘスが最後に引用した詩の一節は、ドイツ語で詠むと一番美しいそうです。

薔薇に理由はない、咲くから咲くのだ。(Die Rose ist ohne warum; sie blühet weil sie blühet.)

最後の「盲目について」の章で、ボルヘスは自分自身の盲目について語り始めます。遺伝的に途中失明を運命付けられていたボルヘス、アルゼンチンの国立国会図書館の館長として百万冊の蔵書に囲まれながら、どのようにして本や言語と関わってきたのか、とても感動的でした。

「盲目とは、不運ではなく、運命もしくは偶然から私たちが授かる、とても不思議な道具の数々のひとつであるにちがいありません。」というボルヘスの最後の言葉を、特別のものに思います。「冬のソナタ」で失明に対する恐れを抱えつつ、不可能の家の設計図をかく主人公と、その後の彼の運命が、そのBGMとともに、感動的だったからです。