壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

香君 (上巻/下巻) 上橋菜穂子

香君 (上) 西から来た少女  (下)遥かな道

上橋菜穂子  (文春e-book)

上橋菜穂子の最新ファンタジー。しかし,ファンタジーと呼ぶにはあまりにも現実味を帯びている。人々の危機を救うのに魔法も武力もいらない。ただ正しい知識と理性と,他者を思いやる心と勇気が必要だという物語。でもそんな小賢しいことを考えるより,心を開いてアイシャという少女に寄り添って,わくわくする豊かな物語を楽しんだ。

 

帝国の西の辺境で育ったアイシャは,人並外れた嗅覚を持つ少女だった。植物や動物,土のにおいをかぎ分け,においから人の感情まで読み取ってしまう。その能力はアイシャにとって必ずしも喜ばしいことではなく,他人とは異なる感覚を持つことに孤独を覚えていた。アイシャは失脚した藩主の生き残りとして命をねらわれ,やむを得ず帝国の香君の元で働くことになった。香君は,帝国の「オアレ稲」の庇護者として神のように祀られている美しい女性だった。

帝国の経済の基盤は「オアレ稲」という神から授かったとされる作物で,干ばつや冷害・虫害に強い。さらに古くからあった栽培植物を駆逐して,高い生産性を持つ稲だ。しかし,ある時思いもよらない虫害が発生した。虫による被害は西の藩王国から東の帝国に迫り,さらにその虫を食べ,あらゆる植物を食べ尽くす蝗害が広がってきたのだ。香君やアイシャとその仲間が主張する,オアレ稲をすべて焼却して恐るべき虫を一掃するという案を,皇帝や藩王たちは受け入れることができるのか。

 

 

以下は読後の雑念 (年寄りは,よけいな事をいろいろ考えてしまう。でも,認知症予防のためには,読書というインプットだけでなく,書くというアウトプットが大事らしいので,とりとめなく綴っておく。)

・この物語には,現代科学の知見が盛り込まれている。農業による人口の増加,農作物の単一栽培(モノカルチャー)の危険性,種籾の独占と不稔化,アレロパシー,菌根共生,食物連鎖と生態系の多様性など,わかりやすい言葉で説明されている。これだけのことをフィクションに盛り込めるのがすばらしい。

・稲の焼却処分は,高病原性鳥インフルエンザによる何百万羽もの鶏の殺処分を連想させる。物語では統治者たちの政治的な背景や動きも,納得がいくように書き込まれていた。現代では法律によって規定され,経済的な補償をすることにより思い切った対策をとることができるわけだ。でも,鶏の殺処分はどうしても心が痛む。こんな安い値段でおいしい卵が食べられるのには,鶏の飼育にどこか無理があるような気がしてならないが,値上がりは懐が痛む。

・コロナが流行り出したころアフリカで発生した蝗害がアジアに広がってきたというニュースがあった。蝗害は多くの被害を出しながらも自然消滅することが多いそうだが,過去に例を見ない気候変動の元で,同じことが言えるのだろうか。

・嗅覚や匂いに関して,フィクション,ノンフィクションの何冊か本を以前読んだのでまとめておきたい。最近では昆虫の嗅覚受容体の研究も進んでいて,農業への応用も夢ではないのかもしれないが,新しい関連本を読む根性がなくなってしまった。

オルファクトグラム:匂いを視覚化して犯人を追うミステリ。『香君』では匂いを「声」として感じていた。  

匂いの帝王:人並外れた嗅覚を持つ調香師ルカ・トゥリンの評伝だが,すこし偏りがある。匂い-その分子構造:化学の専門書,匂いと香りの科学:同上

香水-ある人殺しの物語-:映画化もされた小説。禁断の匂いに手を出した,とびぬけた嗅覚を持つ調香師の物語

匂いたつ官能の都:敏感な嗅覚を持つ女性の感情を匂いに託した小説。官能小説ではない(笑)

香りの愉しみ 匂いの秘密:ルカ・トゥリン自身が書いた本。面白い。本人のTED講演

匂いの人類学 鼻は知っている認知心理学者の書いたわかりやすい嗅覚の話。