壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

病魔という悪の物語 ―チフスのメアリー 金森 修

病魔という悪の物語 ―チフスのメアリー

金森 修  ちくまプリマー新書  電子書籍

スーパー・スプレッダーにはいろいろな定義がありますが,一人の感染者が平均以上に多数の人に感染させる特徴をもった患者(不顕性感染もある)の事です。スーパー・スプレッダーという言葉を聞いたのは2002~2003年のSARSの時でした。あれからもう20年も経ったことに驚きます。21世紀は「感染症・気候変動・テロリズムの世紀」になるとも言われていましたが,どれもが現実のものになってしまいました。コロナがなかなか収束しない今,感染症に怯えて誰が感染源なのかを糾弾してしまいがちな日常を,立ち止まってもう一度考え直すいい機会になりました。

本書は,20世紀初頭のニューヨークで,腸チフスのスーパー・スプレッダーとして「チフスのメアリー(Typhoid Mary)」という汚名を着せられた,貧しいアイルランド移民のメアリー・マローンの物語です。37歳の彼女は賄い婦として料理を提供して,多くの人に腸チフスをうつしてしまいました。腸チフスの健康保菌者で病識がないメアリーは,市当局によって隔離島の病院に半ば強制的に隔離されたことに納得がいきませんでした。チフス菌の排菌が改善されないまま,食品にかかわる仕事には従事しないという誓約書に署名して退院したメアリーでしたが,数年の後には偽名で賄い婦をしていて病人を出して,再び島に23年間隔離され70歳を前に亡くなりました。「チフスのメアリー」という名は彼女の死後も独り歩きして,後世に残っています。

個人の自由と全体の福祉とが、互いに相克関係にあるとき、それをどのように調停したらいいのか”という問題,公衆衛生の名のもとに起きる社会的(人種的,階級的)差別を私たちは今,身をもって体験しています。将来も,人と感染症との付き合いは終わることなく続くでしょうし,差別や偏見も断ち切る事は困難でしょう。だからこそ“問題にすべきなのは,簡単に善悪の単純な二分法で人間社会を切り分けようとする、物の見方にあるのではなかろうか。”という考え方を持ち続けたいと思いました。