人形 ダフネ・デュ・モーリア
デュ・モーリアの初期短編14編。どれも短い話なので後の作品ほどの完成度はないが,その片鱗をうかがわせるものが多い。それぞれに,幻想,悲劇,喜劇,風刺,サスペンスなどの風味があって,独白や書簡などで表現される信頼できない語りという叙述のテクニックによって,人間の心の裏側がとことんあぶり出される。印象的なのは「東風」と「人形」で幻想的なサイコスリラーは著者の独壇場。「いざ、父なる神に」「天使ら、大天使らとともに」の主人公で俗物牧師のホラウェイ師と,「笠貝」のおためごかしの語りを貫く厚顔な女を描く辛辣さもいい。
翻訳されて手に入るデュ・モーリアの小説をすべて読んでしまったのが残念。
東風 East Wind
外界と隔絶した孤島で人々は変化のない平穏な暮らしをしていた。あるとき東風が吹いて大嵐と異人たちの船がやってきた。島の秩序が一気に崩壊し住民たちはもう元には戻れないのだろうか。
♪日本なら「東風吹かば…」は梅の匂いをもたらすが,ヨーロッパではシベリアの方から寒気をもたらす東の大嵐が来るのか,恐ロシア。
人形 The Doll
魔性の女レベッカに恋して転落していく「僕」の不完全な手記。
♪『レベッカ』よりもずっと以前に書かれたものだけど,この名前には著者の思い入れがあるのだろうか。50年以上前に小説をよみ,ヒチコックの映画も,最近のリメイクも見た。一度も姿を見せない女レベッカの恐ろしさは強烈だ。
いざ、父なる神に And Now to God the Father
人気牧師ジェイムズ・ホラウェイは見かけとトークで上流階級の信徒を集めている。彼についてその素晴らしさを語れば語るほど,彼の俗物ぶりが露呈する。
下記の「天使ら、大天使らとともに」はこの続編?
性格の不一致 A Difference in Temperament
いつもかみ合わないカップルの口喧嘩。よくある話だが,どこですれ違ってしまうのか,語りのうまさに引き込まれる。
満たされぬ欲求 Frustration
7年間待ってやっとのことで新婚旅行に出かけたカップルに起きるアクシデントで,初夜はいつ来るのか。
ピカデリー Piccadilly
メイジー自身が語る転落の人生は切ない。お告げに頼ってメイドから娼婦になってしまうまでを語る。下記の「メイジー」は続編
飼い猫 Tame Cat
寄宿学校を終えて帰ってきた娘は自分がすっかり大人になったと思っている。母と親戚じゃないジョンおじさんと三人で仲良く暮らせると思っていたのに。
♪娘が真実を悟った瞬間が見事に痛々しい。娘の騙りかと思ったら,本当に知らなかった。
メイジー Mazie
娼婦となったメイジーは自身の悲惨な行く末から目を背けたいのに,先にある絶望を感じさせる。
痛みはいつか消える Nothing Hurts for Long
三か月ぶりにベルリンから帰ってくる夫を迎える妻は,親友から夫婦の破綻を相談されても全く共感できなかったのに,夫の様子に何かを悟るのだ。
天使ら、大天使らとともに Angels and Archangels
人気牧師ジェイムズ・ホラウェイは,今度はまっとうな副牧師から自分の教会を取り戻すためもっと腹黒い事をしでかす。俗物を越えて悪人になっている。
♪ところで「ピカデリー」で,掏摸で捕まったメイジーが副牧師に助けられていて,「メイジー」は教会の結婚式で牧師の説教を聞いているという伏線があるのではないか。
ウィークエンド Week-End
金曜の夕方,車で郊外に向かうとき、ふたりはほとんど口をきかなかった。うっとりと恋に盲目な(バ)カップルはだんだん雲行きが怪しくなって,とうとう決裂。日曜日の夕方,車でロンドンに向かうとき,ふたりはほとんど口をきかなかった。
幸福の谷 The Happy Valley
幻想を抱えた女性が夢見る夢と現実。二つが混然一体となって自然の美しい描写となっている。
あとがきによれば,『レベッカ』のマンダレーに通じるらしいが,よく覚えていない。
そして手紙は冷たくなった And His Letter Grew Colder
男性側の手紙だけが語る恋の始まりと終わり。その転換点はもちろん…。それからの男の手のひら返しがよくわかる。
笠貝 The Limpet
“いくら他人に尽くしても報われない自分は被害者”と語る自己中ストーカー女の語りは強烈。短編集『鳥』で「あおがい」として読んだけれど,印象がちょっと違う。