壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

涅槃の雪 西條奈加

涅槃の雪 西條奈加

光文社文庫  電子書籍

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 天保の改革が江戸の町に与えた影響を町与力の目線でとらえた骨太な時代小説です。老中水野忠邦配下の江戸町奉行三人,ご存じ金さんこと遠山景元,正義漢の矢部定謙,妖怪と呼ばれた鳥居耀蔵たちの政治的な駆け引きに巻き込まれるのが,見かけは武骨でも心優しい吟味方与力の高安門佑です。奉行たちの思惑に振り回されながらも自分を通すことのできる矜持があり,悪名高い鳥居の人間的な一面をみる公正な目を持ちます。門佑と元女郎のお卯乃との恋の行方が絡んだ人情噺も,過酷な政策に苦しむ庶民たちの姿も,史実と共に描かれて,読みやすい本です。

 「猫の傀儡」で初めて読んだ西條奈加をもう一冊と,50%ポイントにつられて買った本で,お気楽な捕り物帳かと思い込んでいましたが,いい意味で裏切られた本でした。「町奉行=TVドラマの遠山の金さんや大岡越前のお白州場面」と短絡してしまうのですが,江戸時代の町奉行所は,司法/警察だけでなく,行政も担うお役所だったのですね。老中の無理やりな改革案に沿って,徹夜で調査し報告書を書き上げる与力たちの姿は,コロナ禍の中でオリンピックを強行する行方の定まらぬ政権の下で働く官僚やお役人たちのようです。民の心を掌握しなければ,どんな優れた改革だってうまくいくはずがありません。水野忠邦は”人心をおもんぱかることのできぬ気性”だとありました。コロナで「人流」は減少していますと繰り返す,「人心」の分からない総理大臣のようではありませんか。

7つの連作短編集というより,7章からなる長編といったほうがいいかもしれません。こんなにいい小説だからドラマになっているのではないか?と検索したのですがドラマはないみたいです。高安門佑役は誰がいいのかなあ。“猛禽を思わせる鋭い顔と、人並みはずれた上背の高さ”の門佑ですから。“気が強いが気位はもっと高い”という姉の園江も面白いキャラクターです。三人の奉行たちもそれぞれに個性的で面白いドラマになるのになあ,なんて,読んだ後にも妄想を膨らませて楽しみました。

 

各章に,天保の改革の施策が副題として添えられていました。自分自身の記憶のためのあらすじです。

茶番白洲——隠売女大手入 庶民の贅沢を取り締まる見せしめとして大がかりな隠売女の取り締まりが行われた。町で見かけた女が隠売女狩りにあった。自分より若い仲間をかばって暴れ,自らはお縄になった。門佑は遠山から市井の様子を毎日報告せよと抜擢されていた。足にけがをした女(お卯乃)を門佑の屋敷で”入牢”させよと奉行に命ぜられた。入牢期限が終わったが…。お卯乃の哀しさを感じる門佑でした。

雛の風——奢侈禁止令 物価の上昇を抑えるため贅沢品の取り締まりが行われている。禁令は雛人形にまで及び零細な職人たちは困窮している。北町の遠山と南町の矢部は老中水野に不賛成の意見書をあげた。町では役人や名主にけがをさせる”かまいたち”が横行している。遠山は「このかまいたちこそが下々の声だ」という。とうとう門佑までかまいたちに襲われたが,その時の証拠を手掛かりに… 。姉の園江が嫁ぎ先を離縁して家に帰ってきた。お卯乃をみっちり仕込むという。

茂弥・勢登菊——寄席取払申付 芝居や吉原よりずっと安価な寄席は江戸に暮らす最下層の者たちの娯楽だった。その中でも人気な女浄瑠璃を取り締まれば,庶民の不満は爆発しかねないと奉行は考えているが,厳しい取り締まりが行われた。門佑は逃がした一人の女浄瑠璃を見つけたが…。

山葵景気——株仲間解散令 株仲間は同業カルテルで,これを取り潰せば物価が下がると計算した水野だが,矢部と遠山両奉行は貨幣改鋳こそ諸悪の根源だとして反対している。実際株仲間を解散させても問題は解決しなかった。矢部は失脚し桑名藩で幽閉され,新しい南町奉行に鳥居が就任した。園江の元婚家は駿河勤番で,以前から復縁を乞われていたが園江は応じない。子がないために妾を持ちかけた舅姑と夫に憤っていたようだ。矢部が断食して死んだ無念に衝撃を受けた門佑だったが,天保の飢饉の時に死んだ弟の事をお卯乃に聞かされて考える所があった。

涅槃の雪——芝居町所替 派手な歌舞伎を目の敵にする水野は,火事にかこつけて芝居小屋を日本橋から郊外の浅草に所替えした。芝居小屋をお卯乃といっしょに探ってこいとの遠山の言いつけで最後に移転となる河原崎座に出かけた門佑の前で5歳くらいの男の子がさらわれた。六代目河原崎権之助の養子だった。そのさなか,お卯乃は死んだ弟の最後の言葉を門佑に伝える。涅槃に雪は降るのか,と。門佑は鳥居に配下になる様に誘われるが…。

落梅——人返し令 農村の人口減少と江戸の人口増加が財政悪化の原因だと人返し令を強行するが,いわゆる補助金が十分でないので誰も従わない。帰らなければならないのかと心配するお卯乃に縁談があり門佑は…。姉がお卯乃を追い出したようで,門佑は怒って姉を絶縁する。遠山は奉行を辞めされられ,門佑は鳥居のスパイではないかと疑われているが,言い訳はしない。

風花——天保改革の終焉 水野が出した上知令は,大名や旗本の猛反対で失敗した。鳥居までが水野を裏切ったのだ。姉も去り,お卯乃がいなくなり,同僚からも疎んじられて門佑は鬱々としている。姉が嫁入りしたとの突然の知らせにびっくりしたが,相手が5人の子持ちのやもめと聞いて,門佑は姉の魂胆がわかった! 叔母からは「「門佑殿、今日限りでお卯乃 という娘のことは忘れて、我が娘、千歳を迎えて下さりませ」と迫られた。遠山は奉行に復帰し,門佑は四国丸亀で蟄居中の鳥居と話をする。江戸に帰った門佑を八丁堀の屋敷で待っていたのは…。 姉園江の深謀遠慮はすごい!