壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

「暮らし」のファシズム  大塚英志

「暮らし」のファシズム  戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた 

大塚英志  筑摩書房  図書館本

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戦時中の大政翼賛会の元で,人々の日常の暮らしの中にどのようにファシズムが侵入していったのかを検証している本です。国家総動員法のような,著者の言う「男文字」のあからさまな統制のような戦時プロパガンダとは別に,翼賛体制にはいわば「女文字」のプロパガンダがあったといいます。その日常に組み込まれていく「目に見えにくいプロパガンダ」は,節約,自粛,生活の簡素化,丁寧な暮らしなどを,国民に自発的にさせるように,またそういう日常を強いる同調圧力を生むように仕掛けられていたのだというのです。

婦人雑誌の,着こなしやレシピの中に上手に入り込んだ戦時下の宣伝と翼賛会宣伝部,小説家の作品の中に入り込んだ国策など多数。太宰治の「女生徒」という小説が,戦時下の実在の女学生の日記を書き直したものだという話にはとてもビックリしました(第二章 太宰治の女性一人称小説と戦争メディアミックス)。この本の中で特に読みやすくわかりやすかったのが,「翼賛一家」という作品群についての話です。(マンガの分野は著者の独壇場なのでしょう。)多種類の雑誌で,大勢の漫画家や作家たちが参加し,一般人の二次創作まであったと言います(第四章 「サザエさん」一家はどこから来たのか)。

序章とあとがきの部分では,戦時下の言説がいかに現在のコロナ禍の言説と似通ってしまうのかが議論されています。営業時間の短縮,行列の自粛,新しい生活などという,戦時下でも使われていた言葉がコロナでも使われてしまうのか,「正しさ」という同調圧力ファシズムを召喚しないだろうか,と。

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私たちがちょっと油断していると身の回りが乱雑になるように,油断していると全体主義的なものが身の回りに入り込んでくるという事は理解できるような気がします。かつて戦争に向かう道はどんなだったのだろうか,戦争を望む国民は多くなかったにもかかわらず,権力とカネのために戦争を起こす国家権力を止められなかった事を考えると,いま,状況は違うにしても,多くの国民が開催を望まないオリンピックがいつの間にか開催が決定された事とどこかしら共通点があって,とても気持ち悪い思いを持ちます。オリンピックが悪いわけではないですが,このパンデミックの状況でオリンピックを開催する,権力とカネのための国家っていったい何なんだろうと。

明日(2021/7/23),開会式が始まるけど,テレビで見るかどうか迷ってました。なんかモヤモヤして腹立たしいような…。もともとスポーツ観戦の習慣も興味もないのですが,今朝N-スぺ・タモリ×山中伸弥 「超人たちの人体〜アスリート 限界への挑戦〜」という番組を見て,スポーツ科学の面白さを再認識し,オリパラをちょっと見てみようかと思いました。このタイミングで放送することをNHKはねらっていたのでしょう。

本書にも「科学」という言葉がプロパガンダの強力な道具で,報道の手練れ達が本気を出すと世の中の流れを変えられるというような話がありました。その通りですね,簡単にやられてしまいました。やっぱオリンピックは見ないかな。