壊れかけたメモリーの外部記憶

70代の読書記録です。あとどれくらい本が読めるんだろう…

たまさか人形堂それから  津原泰水

たまさか人形堂それから  津原泰水

文春文庫  電子書籍

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前作『たまさか人形堂物語』はバラエティに富んだ連作短編でしたが,本作は長編ともいえるような短編集です。前作にあった毒は消されてすっかりほのぼのしてしまいました。現実を踏み越えるのかという筋運びを見せつつ,境界を越えずにユーモアの方に持って行かれました。前作最後で世田谷の古い人形店を受け継いだ澪さんが廃業しかけたのに,よかった!富永くんも師村さんもそのまま働いています。富永くんは相変わらずのマイペース,師村さんは真面目一方。束前さんと澪さんはふたりでツンデレごっこしているみたい。でも皆の人形に対する深い思い入れを,澪さんも少しずつ理解しようと,木目込み人形の講習に通ったりしているが,手が器用でないのが致命的(笑)。

 

油性ペンで口紅を塗られてしまったリカちゃん人形が修理に持ち込まれたところから始まる香山リカと申します」。リカちゃんを現実の友達と思っていた人形作家の五十埜さんと,同級生に香山リカがいたと主張する束前さんの現実が気の毒なような…。

お祖母ちゃんの「髪が伸びる」市松人形の修理が持ちこまれ,髪の秘密に師村さんは夢中です。富永くんの創作の蛸の縫い包みを気に入った会社社長の八郎さんは澪さんも気に入ったようですが…。

前作からの師村さんの因縁の阿波人形のかしら「小田巻姫」が日本に戻ってきたという。本物なのか,師村さんの渾身のレプリカなのか…。洋品店の倉庫で見つかった古いマネキンは修復できるのか…。

スランプに陥った富永くんは店に出てこない。修理痕をあえて残すというチェコのマリオネットを手掛ける師村さん。富永くんは澪さんの焼いたピロシキを持って小豆島に旅立つピロシキ日和」

「雲を越えて」店の人形たちがそれぞれに語りだす。

 

そうそう,人形の声が聞こえてくるのは,そんなに不思議なことじゃないですよね。でもその声を聞いてしまうとなかなか処分できなくなっちゃうのよね。

そして私は一人になった  山本文緒

そして私は一人になった  山本文緒

角川文庫 電子書籍

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『自転しながら公転する』は図書館の予約が満杯でしたので,文庫本になったら購入しようかと思っていたところで先月に訃報に接し,昨年NHKの朝の番組での元気なお姿を思い出しながら,いつか読もうと気になっていた作品を存命中に読めなかったことへの追悼としてまずは日記『そして私は一人になった』を読みました。著者が33歳当時の日記で,最後の作品『自転しながら公転する』のヒロインの32歳という年代に近いものです。

離婚して一人になった彼女の一年に渡る日記風のエッセイです。誰かのブログを読んでいるような自然で普通の暮らしと,その中に見えてくる不安な心情が我が事のように感じられる文章です。三十代の女性と七十代の私に具体的な共通点があるわけではありませんが,一人で暮らすことへの何かしらの共感がありました。

33歳の日記のほかに,インド旅行での仰天81歳の同行者の話,四年後(2000年)の直木賞受賞直後の日記,そしてうつ病と胆嚢手術を経て2007年の「そして私は飲まなくなった」までのエッセイが掲載されています。その最後の“不摂生な生活が生んだストレスに心も身体もぺちゃんこにされたあと、今私はやっと人生の後半をよろよろと歩き始めた気がする。人生の後半とは、どうやら前半のツケを払う時間でもあるようだ。”という言葉に胸を突かれます。

中島梓栗本薫)も50代の後半に同じ病で亡くなったことを思い出しました。

火星の砂  アーサー・C・クラーク

火星の砂  アーサー・C・クラーク

平井イサク訳  早川書房  電子書籍

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『火星○○』三冊目です。火星から戻ってこられません。昨今は火星探査で米中が競争していて,どこの国が一番早く火星の岩石サンプルを持ちかえるのでしょうか。かつてはSFでのみ到達可能であった有人探査も,今はもう技術的には可能なのでしょう。この『火星の砂』は1951年に書かれた,私と同じ歳の古いSFです。70年前には人類は火星に対してどんな期待をしていたのかな。

 

火星-地球間の定期航路客船として初めて作られた宇宙船アーレス号の最初の乗客として,火星に向かうことになったSF作家マーティン・ギブスン。彼の書く記事での宣伝効果を期待されていたのだ。火星のドーム都市は呼吸できる大気で満たされ,すでに多くの人たちが働いていた。最初はルポライターとしての役目しか感じていなかったギブスンだが,火星人(?)を見つけ火星の秘密を知るうちに,火星の未来に深く関わりたいと思うようになった。

 

この本が書かれた当時は,人工衛星がまだ打ち上げられていない時代(スプートニク以前)でした。SF的な最先端の技術が盛り込まれていたのでしょうが,現実が小説に追いついた今では,あり得ない設定と古びてしまった旧式の技術がアンバランスに混在しています。でも宇宙旅行が人類にとって,夢と冒険であるという面はよく伝わってきます。(現在は宇宙開発が現実味を帯びてきて,国家間の競争や経済的思惑など夢だけではありませんが,それでも宇宙探査にはそそられるものがあります。)SF的な要素以上に,人間模様を描いた面白い小説として,肩の力を抜いて読むことができました。

火星人ゴーホーム  フレドリック・ブラウン

火星人ゴーホーム フレドリック・ブラウン

稲葉 明雄訳  グーテンベルク21   電子書籍

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火星のプリンセスを読んだついでに,もう一つ火星物。70年前に書かれたドタバタブラックコメディ風のSFですから古めかしい所はあるのですが,現代的な解釈をするとコロナで苦しむ人間社会の有様を映し出しているようではないですか。

 

人間に嫌がらせをすることだけが大好きな火星人が突然地球上に10億人も現れた。小さな緑色の小人たちは姿は見えるし声もするけれど,捕まえることも触ることすらできない。瞬間移動で地球のどんなところにも突然現れ、透視で知った秘密をしゃべってしまうので,個人のプライバシーも国家の軍事機密も全く保つことができなくなる。彼らの目的は侵略ではなく、ひたすら人間を愚弄してもてあそぶことだった。

その結果,世界がどうなったかというと,テレビ局やラジオ局の放送に介入して娯楽産業に従事する者は失職し,夫婦の寝室に居座って出生率が低下し,産業活動は停滞し,株価は暴落したが,精神分析医と葬儀関係者と鎮静剤と耳栓を売る薬局は巨利を得た。

大混乱の人間社会を救うために,国連事務総長,在野の物理学者,アフリカの呪術師など,いろんな人がいろんな方法を工夫したが,どれが有効な方法だったのかは不明なまま,火星人は突然姿を消した。

 

火星人をコロナウイルスに置きかえてみても,人間社会の脆弱な部分は共通のようです。コロナもあるとき突然原因がはっきりとは分からないまま消えていくのかもしれません。火星人がなぜ現れたのか,火星人の存在は何だったのかについては,この物語の語り部である売れないSF作家ルーク・デヴァルウの虚構が実体化したものなのかと,哲学的な観念論に持ち込んでいます。しかし作者が書きたかったのは危機に瀕した人間のコメディーなのだと思います。

火星のプリンセス  エドガー・ライス・バローズ

火星のプリンセス  エドガー・ライス・バローズ

厚木淳 訳 創元SF文庫 電子書籍

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100年以上も前に書かれたスペース・オペラの原点といわれるSF小説です。初版が1917年ですが,日本で翻訳出版されたのは1965年でした。その時中学生だった私はこのシリーズの文庫本を持っていました。SF大好きで,チープな感じのスペース・オペラも大好きでした。ヒーローとヒロインのジョン・カーターとデジャー・ソリスの名前ははっきり覚えていますがシリーズ11巻を全部読んではいないと思います。

著作権の関係でしょうか,近ごろは電子化された古い小説をたくさん見かけるようになり,懐かしくて読み返したくなりました。『火星のプリンセス』は『ジョン・カーター』として10年ほど前にディズニーで映画化されているので,映画を見るついでに小説も読み直してみました。

原作ではSF的要素はそれほど強調されておらず,騎士道的冒険物語が主眼ですが,ずっと後に続くスぺオペ(スペースオペラ)の原点であることは明らかです。CGが使われ出したSF映画にもバローズの描く世界観が形を変えて受け継がれています。映画『ジョン・カーター』は現代的な解釈が盛り込まれてはいますが,原作の雰囲気がよく伝わってきます。原作『火星のプリンセス』の存在を知らないと,スぺオペの頂点である『スターウォーズ』やそれ以外のSF映画に出てきたシーンの焼き直しのように見えます。そのせいでしょうか,映画はあまりヒットしなかったそうですが,本当は『火星のプリンセス』が先なんです。

映画が先行作品の焼き直しだと強く感じたのが,移動都市ゾダンガの部分です。原作に出てこない移動都市はプリーストリーヴのものです。また原作と映画で決定的に違うのは,映画がスチームパンクっぽい所。そしてジョン・カーターが地球と火星を瞬間移動する理由とデジャー・ソリスのキャラクターです。原作では瞬間移動はなんの理由もなく突然起きるので荒唐無稽な感じですが,映画では介在者があって世界観が大きく異なります。デジャー・ソリスは映画の方がずっと強くて自立した女性になっています。映画は続編を予感する終わり方になっていますが,採算がとれなかったらしいから,続編はできないのかなあ,残念です。

火星の○○○というSFは他にもたくさんあります。それも読んでみたいと思いながら,視力の衰えを感じる毎日です。

ベイカー街の女たち ミセス・ハドスンとメアリー・ワトスンの事件簿1  ミシェル・バークビイ

イカー街の女たち ミセス・ハドスンとメアリー・ワトスンの事件簿1  ミシェル・バークビイ

駒月雅子 訳  角川文庫  電子書籍

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世の中にシャーロック・ホームズパスティーシュはたくさんあります。小説に限らず,映画やドラマも数多く見ました。その中でも本書はコナンドイル財団公式のホームズ・パスティーシュだそうです。ハドソン夫人がベイカー街221Bの家主にして家政婦という事実(?)は揺るぎませんが,じつは推理好き冒険好きだったなんて驚きです。ワトソンの妻メアリーと組んで恐喝事件の解決に乗り出してしまうのです。

ハドソン夫人は何となく年配の女性というイメージがありましたが,本書ではアラフィフ(49)です。ビクトリア朝の頃の人間の寿命から考えると,50歳はもう晩年なのでしょう。でも本書の時代背景はもっと自由に設定されていて,現代的な要素がたくさん入っているのでとても若々しいミセス・ハドスンです。メアリーは正典で聡明な女性として描かれていましたが,カンバーバッチのシャーロックではスパイだったような覚えがありますしw,二人共かなり大胆で向こう見ずな行動に出ます。この二人の身を挺した冒険部分はすこし冗長で飽きるけど,事件は全部解決したわけではなさそうな匂わせがあるので,次回作を読みたくなって困ります。

でも語り手のミセス・ハドスンの身の上話から始まるつかみは魅力的です。彼女が何でこんなに厄介な店子シャーロックを受け入れているのかが,はじめて納得できました。そして,ハドスン夫人の台所の「家政婦は見た」的構造,給仕のビリーやイレギュラーズの少年たちとの心温まる交流などコージーな雰囲気で,とても楽しめました。

くらしのための料理学  土井正晴

くらしのための料理学  土井正晴

学びのきほん  NHK出版  電子書籍

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家族のための料理を何十年も作ってきたが,人生の最後に自分のためだけの料理をすることになった。いつまで作れるかどうかはわからないが,ひとりの食事は気楽でいい。しかし,毎日毎日自分1人のためのご飯を作るのに飽きることがある。外食せずお惣菜を買わず同じような安い材料で毎日同じような食事をしていて,生きていくには十分だけれど,何か物足りないのはなぜか。この本を読んで,たくさんの名言に出会った。癒しを貰い,毎日の料理についてもう一度考え,背中を押してもらって,また明日から料理を続けようと思った。

二時間くらいで読める本ですが,たくさんのいい言葉を見つけました。抜き出しておきます。

  • おいしくなくてもいい 
  • 料理の周囲の情報に惑わされず料理の本来の意味を考える
  • 料理とは、食べられないものを、食べられるようにすること 
  • 料理は、おいしさよりも、食べられることを優先
  • 日常の料理は「一汁一菜」でいい
  • 手を抜くのではなく力を抜く
  • 和食:料理とは理り(ことわり)を 料る(はかる)もの
  • 日本人は、毎日同じ変わりばえのない暮らしをしていても、自然の移ろいに表れる小さな変化に美を見つける
  • おいしさは思いがけないご褒美
  • 料理が暮らしを作る 食卓を整えること
  • 料理する人の気持ちを守れ
  • 動物に餌をあげるのがうれしいのは利他の心 料理も利他
  • 毎日同じように味噌汁を作っても、毎日違う
  • 一椀の中という有限の世界に無限の変化がある  「有限の無限」であるから楽しめる。

下に記す本書の最後の言葉に特に納得した。毎日の食事の写真を撮ってこっそりブログに記載することで,コロナの中での単調な私の生活にもひそかな楽しみができた。

“どうぞ、食事の場をきれいに整えてください。それは、料理の楽しみの世界に入る扉です。簡単な料理をゆっくり作って、ゆっくり食べてください。一人で食べる時もきれいに整えてください。必ずなにかが変わります。